2007年2月24日 ”土佐北街道”

横峰越え (馬立本陣〜川之江本陣)

馬立本陣〜横峰越〜上分〜川之江本陣〜八幡神社(6時間30分)

 

高知城を出立した行列は領石〜権若峠〜穴内〜国見越〜本山〜立川〜

笹ヶ峰越をして馬立本陣に着いた.。此処からは法皇山脈横峰越が待ってい

る。車道歩きが多いけど四国中央市新宮支所から金田町の県道出合いまで

の峠越えは昔の面影が残っている。 土佐、伊予の商人たちも多く行き交い

往還道としても賑わった参勤交代道は平成8年「歴史の道百選」に選定された

いよいよ土佐北街道、”最終章”

8時、新宮、「霧の森」駐車場を出発

対岸へ立派な玉水橋が架かっているが、道標に忠実に

馬立川へ下り、危なっかしい板橋を渡る

 

「霧の森」の横にある馬立本陣跡は、正門と石垣に当時の面影が残る

見上げれば平成の街道、高知道への進入路

此処から、三島・川之江インターまで10分・・・アララ

車道を一時間弱歩き、新宮支所横にある熊野神社に着く

平安時代に勧請されたという熊野神社は四国の熊野信仰の拠点となっている

土佐の殿様も参拝して、旅の無事を祈ったのだろう

昔は、銅山川を筏や舟で渡っていたそうだけど

二千人余も渡っていたんだから時間がかかっただろうな

山道に入って、暫くすると「不動堂」がある。堂に因んでこの付近の地名は

「不動」だそうな。 いい雰囲気〜。 街道にはやっぱり杉林が似合うわ

夜明け前に、本陣を出立するとこの辺りで日の出だったのか「朝日」という地名

いい感じで歩いていたら、あれ〜、道が崩れている

「一升水」ってなんだろう?土佐藩の通り道なんだから一升酒じゃないの?

あら、ここの地名だって〜。茶店跡には懐かしい羽釜が転がっていた

振り返れば、参勤の行列が、昨日越えて来た笹ヶ峰が見える

もうちょっとで、横峰越。横峰を越えたら瀬戸内海が見える〜♪

日当たりの良い道沿いには、春の訪れ”タチツボスミレ”

水ヶ峰,。堂中には本尊地蔵菩薩、弘法大師、不動明王の三体の石仏が

安置されている。山間部を通る街道では大切な水場だったのだろう。

水を汲みに来た軽トラが停まっていたが、直下に高速道のトンネルが

通っている今も、昔と変わらず懇々と清水が湧き出ていた

水が少ない新宮ダム。今年の夏は大丈夫かしら?

左には、昭和の街道、国道319号

11時、横峰越え

法皇山脈横峰を登り詰めると瀬戸内海の島々が見え

振り返れば越してきた山々が重なって見える

夕日が沈まんとする情景を詠った九代藩主、山内豊雍(とよちか)候の和歌

うすくこく 遠近分けて 夕日影

霞む浪まの 沖の島々

お茶屋跡。此処で殿様が休憩する時は、1400m程下にある

平山集落のお倉小屋から荷物を担ぎ上げ接待したとか

この水でお茶を点てたのかな

日も暮れかけていたから、そんな呑気な訳には・・・

途中で道が・・・無い!。植林帯が伐採されたら、道が荒れるのが早い

マスクして藪漕ぎ〜

苔むした石畳は風情があるが、滑りそうで危ない

六十五番三角寺から六十六番雲辺寺へ行く道と出会う

やっと平山集落の県道に出た。ここからは、長〜い車道歩き

四国中央市川之江上分町。昔の面影が残り、いい雰囲気〜

松月庵の「槍下げの松」

行列の邪魔になる松の枝を切ろうとしたら、山内候が「良い枝ぶりの松である

捨て置け」と言われ、以来此処では槍を下げ、馬上の武士は身をかがめて、

通ったと伝えられる。  が、当時の松は枯れ今は無い。残念!

 

金生川、金沢橋より歩いてきた峠を振り返る

真ん中の一番低い所が、堀切峠。その左横が横峰越。よう歩いて来たわ

川之江本陣跡

最短距離を選んだとはいえ、伊能忠敬の測量によると

高知城から川之江まで二十里半七間

2時30分、八幡神社。

殿様も、この太鼓橋の袂で下乗し、海上安全祈願の御参りをした

境内には、十三代藩主山内豊煕候が寄進した「土佐灯篭」がある

(当時のは破損し新しくなっていた)

険しい峠越えを終え、ほっとした一行は、翌日、川之江本陣から仁尾の浦

目指して出立。記録によれば、弥生五日うまの刻に高知を立って

八日に川之江に着き、四月五日に江戸入りしている

(参考文献 妻鳥和教著 「予土の峠をゆく」)

 

平成の街道を走れば高知城から川之江へは1時間の距離だが、やっぱり

当時の土佐は遠国。 国見越、笹ヶ峰越、横峰越を歩いてみて、殿様も

呑気に駕籠に揺られていたとは思えない。険しい急坂続きの四国山脈を

4日で越えようと思えば、家来と一緒に汗して歩いたんじゃないかしら?

  もし、私が姫(?)ならそうするけどなぁ

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