2007年04月07日 萩往還

萩往還を歩き、明治維新胎動の地に吉田松陰を尋ねる

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

明木市〜悴坂〜萩城跡(指月山)〜松下村塾

21km  (7時間)

坂本龍馬は 文久2年(1862) 3月土佐藩を脱藩 

伊予長浜から、海路三田尻に渡り下関に入っている

なぜ長州なのか?

今回は、明治維新胎動の地、萩を訪ねてみよう 

日本の夜明けを作る大きな勢力となり

現在まで歴史の表舞台に立ち続けている長州人の

心とエネルギーを感じてみたい!

 

萩往還は 毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後 

江戸参勤交代の、御成道(おなりみち)として開かれた

萩〜三田尻間、53kmをほぼ直線で結び

幕末には志士達が時代とともに駆け抜けた道である

龍馬も脱藩2ヶ月前、武市半平太の書簡を持ってこの道を通り(多分)

萩の久坂玄瑞を尋ねている

どんな話をしたのかしら 気になる〜

明木市(あきらぎいち)一升谷入口

此処で、萩往還と下関からの赤間関街道が合わさり、萩(写真奥)へ向かう

一升谷(写真右)って、変な名前と思ったら、

一升の煎豆を食べながら歩くと、それを食べ尽くしてしまうほど

長い急坂が続くからだそうだ

今日は煎豆を持っていないので、一升谷はパス。良かった〜

9時10分 さぁ、萩を目指して出発

明木市は萩往還の宿場町、また市の町として栄えた

明木川沿いに春爛漫の風景が広がる

 

昔の明木橋跡、側に安政の大獄で処刑された吉田松陰の歌碑がある

萩を訪れるなら、明治維新の起爆力、推進力となった

松陰三十年の生涯を、語らずにはいられない

龍馬が萩を訪れたのは、松陰が処刑されてから3年後

龍馬と松陰が会っていたら・・・

散歩していたお爺さんに教えて貰ったが

このお地蔵さんは、幕末の頃に殺された

3人の隠密を弔うために作られたとか

 

 

長閑な田園風景が広がる

もう田圃に水が張られ、田植えの準備中

山の中腹に見える、萩往還トンネルの上を越えて悴坂(かせがざか)へ

悴坂の石畳

やっぱり街道には、石畳よね 歴史の跫音が聞こえてきそう

最近、こういう道をよく歩くわ

珍しい総石張りの鹿背隧道

トンネルは通らず、指標に従って、右の山道に入っていく

殿様が休んだ、悴坂駕籠建場跡

駕籠かきや馬子たちが客待ちする場所でもあった

何かと思えば風流な厠

竹林の中を、道の駅・萩往還公園へ下っていく

道の駅の直ぐ側に、有料道路の萩往還トンネルがある

日本の夜明けを指差す吉田松陰の傍らには

松下村塾の双璧、久坂玄瑞と高杉晋作

道の駅には、松陰記念館がある

悴坂一里塚

萩城下、唐樋(からひ)の札場を起点として、最初の一里地点

 

観音橋の近くに建つ「なみだ松」の遺址

萩城下より此処まで見送ってきた家族と、涙を流して別れたので

この松並木を「涙松」と呼ぶようになったとも

また、関ヶ原で敗れた毛利藩が、百二十万五千石から

一挙に三十六万石と削られ、広島から萩へ移る途中

此処まで来た家臣が、悔し涙を流したとも言われている

 

安政の大獄で、江戸送りとなった松陰の歌が残る

かえらじと 思いさだめし 旅なれば

一入ぬるる 涙松かな

11時40分 旧萩駅舎・萩市自然と歴史の展示館

山道で鶯の声で癒され、気分好く下りて来た途端

金切り声のウグイス嬢の出迎え

さすが、長州は総理大臣を何人も輩出しているお国柄

選挙も凄い!  参ったわ〜

自然の音はα波、人工音はβ波を実感〜

金谷神社

文治二年(1186) 太宰府天満宮より勧請

秋祭りでは大名行列、踊り車の奉納があり賑わう

藩政時代、此処には城下町の表玄関、大木戸があった

街道の面影を残す椿町地区

それにしても直線の車道歩きはつらい

橋本橋の袂から、指月山が見える

先ずは、毛利のお殿様にご挨拶してからという事で

お城を目指す

藩校・明倫館跡

教育熱心だった藩主、毛利慶親が人材育成に力を注いだが

ここ明倫館で、10歳の松陰が兵学師範として、門弟に講義している

現在、明倫館跡に建つ明倫小学校は昭和10年に建てられた

木造建築で(登録文化財に指定)現在も使用されている

江戸屋横丁を歩く

碁盤目状の城下町には、他に伊勢屋横丁、菊屋横丁など

いずれも豪商の名をとっている小路がある 

木戸孝允 (桂小五郎)旧居

西郷隆盛 大久保利通とともに維新の

三傑になった小五郎が、20年間住んだ旧宅

神出鬼没の人らしいわ

萩の産土神、春日神社

大同二年、奈良の春日大社より分社され

萩総鎮守として崇敬されている由緒深い古社

萩城下菊屋横丁にある、高杉晋作の生家

産湯の井戸は、当時のまま残っている

晋作は松下村塾に学び、藩命により上海にも渡航

また、奇兵隊総督になるなど尊攘論の急先鋒であった

決起の朝、「今から、長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と

三条実美(さねとみ)に言い放つ晋作の姿が目に浮かぶ

幕府艦隊と戦い、暴れまわった風雲児は、惜しくも29歳の若さで病死

 龍馬か晋作かと言われる位、今もファンは多い

昔ながらの土塀や古い町並みが沢山残っているが

華やかな文化の香りは感じられない

いつ何時、徳川と戦火を交えるかも分からないという危機感が

「贅沢は敵」という風潮を生んだのかも知れない

塀越しに顔を出す夏みかん

夏みかんは明治9年(1876)に失業武士の救済事業の

一つとして栽培が始められた。 5月中旬から6月上旬に

かけて白い花をつけ甘ずっぱい香りが町中に漂う

1時45分 毛利氏三十六万石 十三代の居城 萩城 

5層の天守閣 三重の堀に海水を引き込んだ雄姿を

見せていたが、今は堀と石垣が残るのみ

指月橋を渡り城内へ 後ろは指月山(142m)

松陰の秀才ぶりが、藩主の耳に入り、御前講義の呼び出しがかかる

明倫館の師範が藩主の御前で講義をする制度はあったものの

わずか11歳の子供が・・・と皆、固唾を呑む中、見事な講義を行う

城内一帯は、指月公園として整備されている

お城には満開の桜がよく似合う 

賑やか〜

指月山に登る

指月山は 城内林として保護され 樹齢400年前後の

大木が生い茂り、国指定天然記念物になっている

鬱蒼とした樹林の急坂を20分ほどで 

指月山頂上 萩城詰丸跡に着く

ここは戦時に、最後の籠城をする所で貯水池もある

平時は6,7名の要害番を置いて、陸と海を監視していた

樹間に、萩の街と日本海が見える

まるで、運河のような掘割が廻らされている

正面石垣は天守閣跡

吉田松陰が、海外渡航を企てた罪で投獄された野山獄跡

(行動を共にした金子重輔道は、道を隔てた岩倉獄で病死)

最初、「貴公」と呼んでいた他の囚人たちも

寸暇を惜しんで勉学に励む姿や、憂国の熱情、誠実な人柄

に感化され、孟子の講義を聞き、次第に、師と仰ぐようになった

松陰が獄に居た間、一年余りのこの教育が

松下陋村(しょうかろうそん)なりといえども、誓って神国の幹となさん

と、凄まじい決意となり、偉大な教育者、松陰として開花していく

古風な映画館の新旧入り混じったポスター

懐かしくて、思わず足を止めてしまった

そう言えば、もう何年も映画を観ていないわ

唐樋(からひ)札場跡

藩政時代の唐樋は城下町の中心で高札場があった

此処は、萩と防府三田尻を結ぶ、萩往還の起点でもある

4時10分 松陰神社の境内にある「松下村塾」

至誠にして、動かざるもの、いまだこれあらざるなり

の教えが門下生の中に生き、営々と実践されていった

双璧の久坂玄瑞、高杉晋作を始めとして

木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、吉田栄太郎,入江杉蔵

等、挙げればきりが無いほど沢山の

明治維新に活躍した人物を輩出している

老中、間部詮勝の暗殺を企てた罪により投獄

獄中で書いた故郷への手紙に、両親への想いが滲み出ている

親思う 心にまさる 親心

今日の音ずれ 何と聞くらん

門下生に書き残した激励の書、「留魂録」の冒頭に

身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも

とどめおかまし 大和魂」

辞世

われ 今国のために死す  死して 君親にそむかず

悠々たり 天地のこと  鑑照は 明神なり

安政6年(1859)10月27日午前10時、処刑 松陰三十歳

国思うがため 至誠をもって一生を貫いた松陰

亡くなった10年後

260余年続いた江戸幕府は終わりを迎える

 

人は、学んだ事をどう実行するかが 大切だよ

松陰の言葉が聞こえて来る

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