2007年07月07日 鞆の浦

万葉の昔から瀬戸内海海上交通の潮待ちの港として栄えた鞆の浦

その昔は遊郭等の歓楽街もあり、十返舎一九の宮島参詣道中膝栗毛にも登場するなど

多くの武人、文人、芸術家が交わり、先進的な瀬戸内の歴史と文化を形作ってきた

今回の目的は、鞆に伝わる豪快な火祭り”お手火祭り” 

今尚、時代を越えても失われない先人達の息吹を感じて来ました

沼隈半島の南端にある阿伏兎観音(磐台寺)

元亀元年(1570年)に鞆の浦の漁師が海中より十一面観音の石仏を引き上げ

これを聞きつけた武将、毛利輝元が一宇建立、永代燈明料を寄進・・・

その後寛文七年(1667年)当時の福山藩主水野勝種が回廊や鐘楼,石垣を新たに造り現在のような寺観となった

この観音様は海上安全だけでなく、子授けの霊験あらたかな観音として近郷近在の人々に知られている

天気が好ければ、四国も見えたのでしょうが、瀬戸内の景観は格別の趣〜

沼隈半島を走り、鞆町へ入り

鞆の市営渡船場から、緑に包まれた仙酔島に渡る

大自然を満喫できるハイキングコースやキャンプ場、海水浴場が整備されていて

一日、のんびり出来たら、太陽と海と山のパワーで元気復活かな

仙人ヶ丘(68m)よりの景観

天上を舞っていた仙人が島の余りの美しさに酔って、寝てしまったという

春には桜鯛漁が盛んに行われる鞆の浦は、長閑〜

島の最高峰大弥山(159m)を目指し、ウバメガシの群落を楽しみながら

ハイキングコースを歩いていたが・・・途中から、海へ下りてしまった

下りて行った所は彦浦海水浴場

直ぐ側に、塩工房や五色足湯がある

対岸にある下加美島の岩肌に咲くハナマデシコのピンクが可愛い〜

この島は、干潮時には陸続きになるらしい、「珍島物語」みたいだわ

此処から田ノ浦海水浴場へと続く海沿いの道に珍しい五色岩があるんだけど

現在は崩壊中で通行禁止、仕方なく来た道を登り返す

良く整備されたキャンプ場に着き、その中を下りて行く

雨でも安心の二重張りの高床テントは冷蔵庫や扇風機まで用意されて

快適そうだけど、あんまり非日常とは思えないだろうな

キャンプ場から、真っ直ぐ海に出ると、田ノ浦海水浴場に出る

まだ少し水は冷たかったけど、気持良さそうに泳いでいる

「人生感が変わる宿・ここから」という名前のホテルが船着場の近くに有ったので

どんなホテルだろうかと見に行ったけど、外観は特別変わった様にも見えなかったわ

近付いても逃げようともしない人馴れした狸が、道で美味しそうにすももを食べている

夜行性の筈なのに変だと思ったら、観光客用に餌付けしたらしく

今は増え過ぎて困っているとか  あらら

2時間ほどでは人生感も、また人生観も変わらなかったわ〜

平安時代建立の福禅寺・対潮楼

潮待ちの間、朝鮮通信使が宿泊した迎賓館

福禅寺石垣の下には、大伴旅人が筑紫からの帰路

亡き妻大伴郎女を偲んで詠んだ歌の歌碑が立っている

   吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど見し人ぞなき

鞆の浦の磯のむろ木見むごとに 相見し妹は忘らえめやも

    磯の上に根這ふむろの木見し人を いづらと問はば語り告げむか

むろの木とは、神の降りて来る神霊木で

仙酔島にも自生しているネズミサシの事のようである

対潮楼客殿から見る、弁天島と仙酔島は一幅の絵のよう

朝鮮通信使,李邦彦(イパンオン)は「日東第一形勝」と絶賛した

宮城道雄の琴の名曲「春の海」のモチーフともいわれている

江戸時代の雰囲気が漂う商家

町並ひな祭りの時は、雛壇が飾られた内部を公開

一角にある保命酒の醸造所、中村家(太田家住宅)は

尊皇攘夷を主張する三条実美らが長州に下る時に一夜の宿を求めた所で

鞆七卿落遺跡として国の重要文化財に指定されている

灯籠燈(とうろうどう)と呼ばれる江戸時代の灯台

高さが11mもあり、港にある常夜灯では日本一の大きさ

「金毘羅大権現」の扁額がかかる

鞆港は千石船も碇を下ろした港で、荷の積み下ろしをした雁木と呼ばれる石段が残る

港の側には、海援隊の旗が掲げられた「いろは丸展示館」が建つ

坂本龍馬始め、土佐海援隊が乗っていた「いろは丸」が、紀州藩の6倍近い巨船「明光丸」

と衝突して沈み、この地で、龍馬らが賠償交渉をした資料が展示されている

「船を沈めた償いは、金を取らずに国を取る」といった唄を流行らせて世論操作を行ったり、

交渉の場に「万国公法」を持ち出しての対応等が功を奏して明光丸側に非ありとして決着

港から急坂や階段を登っていくと後山中腹に医王寺がある

此処は平安時代に弘法大師によって開基されたと伝えられる鞆で2番目に古い寺院

眼下に広がる鞆港の眺めが素晴らしい

オランダ医師シーボルトもこの小路をよく登ったそうだ

医王寺の仁王門下に江戸時代の奇才・平賀源内の生祠がある

讃岐志度村生まれの蘭学者、平賀源内は長崎の帰路この地に立ち寄り

オランダや長崎の陶法を取り入れた源内焼きの製法を伝え、生存中に神として祀られた

靜観寺のすぐ前に「ささやき橋」と呼ばれる、ほんの小さな石の橋がある

鞆の浦には一本の川も流れていないのに・・・

 応神天皇の頃、百済(韓国)使節の接待役・武内臣和多利(タケウチのオミワタリ)と

美しい官妓・江の浦がこの橋の近くで密会を重ね、

御法度破りの見せしめにと、深い海の底に沈められてしまった

 二人を哀れんだ地元の人達が、その橋をささやき橋と言うようになったそうだ

それにしても、寺町だけあって、神社や寺がひしめいている

沼名前(ぬなくま)神社参道

京都八坂神社の元社で歴史と格式を誇る神社

境内には豊臣秀吉が愛用した能舞台がある

さすが鞆町で最古の寺院、風格があるわ〜

本日の主役、大手火 肥松で作られた、長さ4m。重さ200kg位の大松明

お手火祭りは五穀豊穣・無病息災を祈る祭りで、同神社の記録では約650年前から行われている

沼名前神社境内に奉納されている力石

町内の祭礼には度々力自慢大会が開かれ

鞆では「なかせ」とも呼ばれていた沖仲仕(おきなかし)達は

重さは200キロ以上もの力石を競って奉納した

側には八幡神社・竈(かまど)神社・松尾神社・厳島神社、渡守神社・護国神社

天神社などの全国の有名な神社が祀られています。

6時に一番太鼓が鳴り、二番太鼓に続いて

8時の三番太鼓が鳴り終わると

神火を受け取りに白装束の若者が、大きな声を出しながら本殿に向かう

鎌倉時代より、650年の歴史を誇る日本三台火祭り”お手火まつり”のクライマックス

力強い太鼓の音が鳴り響く中

神火を受け取ったお手火が、火の粉を舞い上がらせながら

随神門をゆっくり潜る。屋根が燃え出さないかしらとはらはらしたわ

息を呑む豪快さに、境内から歓声が沸きあがり興奮の坩堝となる中

本殿まで、石段を練りながら上がってくるが、遅々として進まない

いくらバケツで水をかけて貰っても、想像を絶する熱さだろうな

見ているだけでも熱いんだから!

11時前、三体のお手火が本殿前に揃い豪快な火祭りはフィナーレだが

「お手火まつり」はこの後一週間続き、お神輿が町を練り歩くそうです

 

祭りの世話役の方が「此処は祭りが多いよ。年から年中祭りしよる」と言っていましたが

御弓祭り、弁天島花火祭り、萱の輪潜り、お手火祭り、御輿祭り、兆歳、鞴祭りと

鞆町内では年間を通して祭礼が絶える事なく継承されており

こうした祭礼や方言の中に京風、都言葉等が随所に散見され

往時には鞆の浦と京との結びつきが大変強かったんだなと思います

世界遺産の話もあり道が狭くて不便なので、海に橋を架けるとか

埋め立てるとかの話も出ているそうですが、この素晴らしい景観が

壊されてしまったら、もう「鞆の浦」じゃ無くなりそうですね

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