源平ロマンを求めて

「判官びいき」という言葉を後世に残した源九郎判官義経

一ノ谷の合戦後、讃岐屋島に逃れた平家軍追討のため西へ向かう

摂津渡辺ノ津(現大阪市堂島)から漕ぎ出した20隻の軍船は

折からの暴風雨に乗じて、通常2日かかる海路25里の紀淡海峡を

僅か6時間で渡りきり、寿永4年(1185)2月18日早朝

阿波の国勝浦(徳島県小松島市)に上陸

地元の新居見城主・近藤六親近の先導を受けて

現在の小松島市を横断、土佐街道を北へ進み

勝浦川を渡り、平家方の熊山城(徳島市)、桜間城(石井町)を攻め破り

夜を徹して難所とされる大坂峠を越えて讃岐国に入り屋島の合戦に臨む

この時に義経軍の辿った道が“義経街道”と呼ばれている

 

2007年09月23日 小松島市「義経ドリームロード」

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

JR阿波赤石駅〜勢合〜恩山寺〜旗山〜中王子〜弁天山〜JR地蔵橋駅

                                   (5時間10分)

「義経ドリームロード」として整備されている源平ゆかりの史跡を巡り

日本一低い自然の山・弁天山を目指す

8時30分 JR阿波赤石駅に車を停めて出発、入江に出る

怒涛の嵐の中、光を浴びた陸が見えた時

義経たちの喜びは如何ばかりであったろう

「勝浦とはめでたい!戦に勝つぞ!」と叫んだかもしれない

赤石山麓付近にある「勢合」碑

ふるさとプロムナードコース(ふるさと創生事業)案内図

軍船を集めて勢揃いしたとされる「勢合」を起点とし、勝浦川畔の中王寺まで

小松島市内の義経ゆかりの史跡を結ぶ約10kmが「義経ドリームロード」

随所に案内板や道標が設置されている

勢合から暫くは、快適な水路沿いの道

水辺には可愛いコウホネやクロモの花が咲いている

指標に従って、スダチやみかんが植えられている山道に入って行く

そんなに暑くもなく、爽やかな風が吹き快適〜

田野町の釈迦寺谷に入ると間もなく、左側に薄暗い釈迦庵があり

境内には、奈良薬師寺の仏足石を写したと言われる仏足石がある

釈迦庵境内前に「弦張坂」の表示板が立てられているが

義経軍も田野町白浜から、此の坂道を越えて行ったのだろう

軍勢は峠の向こうの敵の伏兵を警戒して

弓の弦を張って登ったと書かれている

薄暗い竹林を抜けると恩山寺への道と合流

義経軍は恩山寺へ登る坂の向こうに敵兵がいないことを探知し

弓の弦を巻かせたので、この辺りを「弦巻坂」というらしい

でも、釈迦庵から此処までほんの15分程

そんなに状況が変わるとは思えないんだけど

まぁ、いいか

ちょっと道を左に逸れて、坂道を登って行く

四国霊場第十八番札所・母養山恩山寺にお参り

弘法大師のお母さん、玉依御前が修行中の大師を訪ねて来たという

玉依御前ゆかりの寺だそうだけど、山号も寺号も良い

義経さんも、母の常盤御前を思い出しお参りしたに違いない

恩山寺山門側で彼岸花が咲き乱れている

そういえば今日は彼岸の中日

道に覆い被さる様に、四方に枝を張って茂っている

県天然記念物指定の「びらんじゅ」の木は

母と会った記念にと、弘法大師が植えたと伝えられる

「義経ドリームロード」に戻り

恩山寺谷川に架かる赤橋を渡り芝生町へと下って行く

稲刈りの済んだ田圃の向こうに、こんもりとした「旗山」が見え出した

義経率いる源氏の軍勢が屋島に進軍する際、この山に勢揃いし

源氏の旗である白旗を掲げ、軍勢の士気を高揚した所と伝えられている

ベンチに座って寛いでいるお年寄り達に挨拶し

八幡神社の扁額がかかる鳥居を潜り、急な石段を上がって行くと

弓を高く掲げ愛馬にまたがった勇ましい義経の騎馬像が目に飛び込んでくる

高さ六・七メートル、騎馬像としては日本一の大きさだそうだ

旗山の裾野、東北角にある「天馬石」

名馬麿墨と宇治川先陣争いをした名馬池月が石に化したとも

また馬が天からおりて化石になったとも言われている

あんまり馬の形をしているようにも思えないが

この石を踏むと腹痛を起こすそうなので、急いで通り過ぎた

「弁慶の岩屋」と呼ばれるこの横穴式古墳は

約一千数百年前、この地を治めていた豪族のお墓だそうだ

力持ちの弁慶が、此の大岩を持ち上げて乗せたと伝えられている

義経軍を屋島へと先導した近藤六親近の山城・新居見城跡を過ぎると

左手に、楠の大木が目立つ鎮守の森が見えてくる

鬱蒼と茂る春日神社に入って行くと

祠の側に「義経くらかけの岩」と言われている巨岩がある

勝浦川を渉る前に、此処で軍馬を整えたのだろう

木陰で休みたかったけど、蚊がうるさくて早々に引き返す

此の辺りは、稲刈りが早いのかなぁ

冬野菜準備なのか、綺麗に耕作されている

中王子社の鳥居が残る

義経軍は、この中王寺付近から勝浦川を渉り

平家方の熊山城を攻めたと言われている

 

尚、毎年2月中旬の日曜日(義経軍上陸の2月18日に近い日曜日)に

当時の衣装を着た義経、弁慶、静御前も参加する「義経夢想祭」が催され

義経ゆかりの史跡を巡る「義経ドリームロード」オリエンテーリングが行われている

以上 小松島市HP参照)

勝浦川の土手を走る県道16号線

結構スピードを出している車が多く、ハラハラしながら歩く

振り返れば中津峰が霞んでいる

「おじさ〜ん  釣れますか〜?」

対岸へ渉りたいけど、橋が無い

地図上に、向こう岸まで破線が書かれているので

ひょっとして小さな橋でも架かっているかなと

水際まで下りていったが・・・トボトボと県道まで引き返す

橋脚が年代を感じさせる牟岐線の鉄橋

1時40分地蔵橋駅発の電車が通るまで、後15分

待ちくたびれた頃、警報機が鳴り出し電車が走って来た

「帰りは、お世話になりま〜す」

国道55号線の勝浦川橋を渡り地蔵橋方面へ向かう

平家隆盛のその昔、此の辺りは海だったそうだが

田圃が何処までも続くだけ・・・目指す本峰は何処よ?

 5時間かけてやっと取り付き、僅か20歩で登頂

”日本一低い自然の山” 標高6.1mの弁天山

国土地理院発行の地形図にも山名と標高が記されている

歴史ある弁天山を守ろうと、保存会が周辺を整備し

標高に因んで毎年6月1日にお山開きがされているそうだ

以前に来た時には無かった産直のお店が、前の広場に出来ていた

前のラーメン屋さんへ駆け込んで登頂証明書を貰ってから

JR地蔵橋駅まで近道を走り、水路を飛び越え線路を跨ぎ駅のホームへ

発車時刻の2時44分に、なんとか間に合いました

 

2007年02月18日    「讃岐街道」

讃岐最古の道とされる大坂峠越

国道11号線が開通した当時は、まだ波打ち際の危険な場所も有ったので

阿讃の往来には、大麻山の山塊を迂回する大坂峠越えが使われたそうだ

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

JR阿波大宮駅〜大坂峠〜あせび公園〜龍王山〜大坂峠〜JR讃岐相生駅

(3時間20分)

義経軍は四国に着くや否や、夜を徹して険しい大坂峠を越え

讃岐へ入り、早くも翌日には平氏の陣に襲いかかる

9時、JR阿波大宮駅を出発

先ずは、大宮神社にお参りします

長閑な里山の田園風景

畑仕事をしていた小母さんが「大坂峠越えするんかね」と見送ってくれた

「大坂」とは大きな坂という意味らしい

こりゃ、急坂続きを覚悟しなくては

寿永4年(1185)、近藤六親家を 案内人とした義経軍総勢200余騎が

山道を1里余、夜を徹して大坂峠を越え引田に達した

降りつづいた大雨のあとだけに、山道は河床のようであったろう

清水庵と呼ばれる休憩所跡には、大きな常夜灯が立つ

10時 大坂峠展望所(392m)

眼下に讃岐平野・瀬戸内海が一望出来るが、今日は生憎舫っている

県境の展望台には引田町相生出身の南原繁元東大総長自筆の碑

「幼くて われの越えにし  大坂峠に立ちて見さくる  ふるさとの町 」

此処より「あせび公園」、龍王山へ寄り道〜

少し咲き始めたあせびの群落を楽しみながら、ゆっくり上がって行くと

第二展望所の広場に出て、其処から10分程進むと龍王山に着く

10時30分 鬱蒼とした木々で囲まれた龍王山頂上(475m

龍王山から引き返し「あせび公園」から、徳島平野を一望する

ゆったりと流れる吉野川の向こうには眉山が霞む

アセビの花もほころびかけている

もう直ぐ、一斉に可憐な花を咲かせるだろう

 阿讃の国境である大坂峠まで引き返し、讃岐引田へと下って行く

歴史を偲ばせる石畳

風情があっていいんだけど、湿っていてちょっと滑りそう

此の道は、文化庁選定「歴史の道百選」に選ばれている

県境展望休憩所から瀬戸内海を見る

いよいよ引田の港が近付いて来た

平成の街道、高速道路が見え出すと、間もなく車道にでる

讃岐相生より見る大坂峠と龍王山(475m)

12時20分 JR讃岐相生駅着

此処は、阿波から大坂峠を越えてきた南海道が讃岐に入り、最初の駅家の地

夜を徹して走り抜けた義経軍も、この地で馬を休めたと謂われている

 

2007年09月15日    「屋島周回・源平史跡巡り」

一ノ谷の合戦後、屋島に逃れた平氏は、島全体を城郭として防備を固めていた

しかし風雨をついて阿波へ渡った義経軍は、夜を徹して大坂峠を越え屋島を撃った

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 
屋島神社駐車場〜 三角点〜屋島寺〜遊鶴亭〜長崎ノ鼻〜源平史跡

・牟礼石灯りロード(うどん本陣山田屋)〜駐車場  (7時間40分)

当時、浅い海に隔てられた半島形溶岩台地の屋島は

頂上部が平坦で、その形状が屋根に似ている所から名づけられた

山上にある展望台からは、備讃瀬戸の島々、行き交う大小の船舶

讃岐平野が一望出来、眼下には檀ノ浦の古戦場が広がる

(同じだんのうらだが、屋島は檀ノ浦で、下関は壇ノ浦)

屋島神社駐車場に車を停め、琴電屋島駅の前を通り

今は、営業運転されていない屋島ケーブルを見ながら車道を進む

道の両側に池が並ぶ「二ツ池」を過ぎると、急坂になって来る

史跡天然記念物屋島を縫うように舗装された道を登って行くと

弘法大師が加持祈祷したと言われている「加持水」に突き当たる

干ばつでも此処の湧水は絶えることがないそうだ

さらに、「不喰梨」

美味しそうに熟している梨を見て、弘法大師が一つ所望した所

「これは食べられない梨です」と持ち主が断ったそうだが

その後、此の梨は石の様に固くなって食べられなくなったとか、アララ

此の「畳岩」付近は岩肌が露出している

紅葉を待たずに木々が枯れかけている、やっぱり水不足なんだ

四国霊場第八十四番札所・屋島寺、仁王門

門は潜らず、先ずは三角点を目指す

三角点手前の展望所から高松市街を見る

遊歩道から少し入り込んで行った所にある南嶺三角点(292m)

屋島の東側は切り立つ断崖

談古嶺展望台より、向かい合う五剣山

源平合戦の舞台となった入江や相引川が一望出来る

弘法大師が屋島寺伽藍を南嶺に移す際

お経と宝珠を納めて池としたのがこの瑠璃宝の池

源平合戦のとき檀ノ浦で戦った武士が血のついた刀を洗い

池の水が真っ赤に染まったということから「血の池」と呼ばれている

鑑真和上が開基したお寺で、平家供養の鐘として

鎌倉時代・貞応二年(1223年)に鋳造された梵鐘が鳴り響く

境内にある宝物館には「源平屋島合戦図」等の国宝や

屋島寺に伝わる宝物が展示されている

屋島寺本堂横にある蓑山大明神

四国各地の狸の大元締・太三郎狸を祀る

屋島寺の四天門を潜り、再び遊歩道へ出て右へ進む

源氏が陣笠を投げて勝鬨をあげたという言い伝えにならい

素焼きのかわらけを展望台から海に向かって飛ばす

「かわら投げ」を子ども連れの観光客が楽しんでいた

「獅子の霊巌」の展望所

屋島城跡からは、高松市街や備讃瀬戸が間近に見える

屋島ドライブウエイの駐車場を過ぎると、北嶺先端まで、あと少し

鑑真和上が堂を建てたと伝えられる「千間堂跡」

側には広場や池、トイレも有り、休憩所となっている

北嶺最北端「遊鶴亭」展望所

瀬戸内海の東西を見渡せる絶好のビューポイント「遊鶴亭」の名は

ここを訪れた昭和天皇が眺めを賞賛し命名されたそうです

穏やかな備讃瀬戸

半島先端に見えている長崎ノ鼻へ向かって

急坂を下って行く

雰囲気の良いウバメガシの道

日本書紀に「讃岐国山田郡の屋嶋城・・・・を築く」とあるが

原始・古代以来備讃瀬戸の交通の要衝であった屋島には

その遺構の石塁跡・櫓跡(やぐらあと)が残っている

コウモリが棲んでいると言う此の洞窟も、関係あるのかなぁ

結構交通量のある県道150号と出合う

案内板に従って木里神社参道を行くと

近付いてきた長崎ノ鼻が、木の間から見て取れる

此処が、ペリー来航に備えて砲台を造った場所

此の角度から見る屋島は初めてかな?

のんびり潮風にあたって休んでいたら

轟音を響かせて水上バイクが走り去って行った

そろそろ古戦場巡りに出発

暑い中、車道を歩き牟礼町までやって来た

牟礼町にある五剣山は、海抜374メートル

のこぎり形の山頂は昔、5 つの連峰がそびえていたが

北端の1峰は永禄11年(1568)5月霖雨により崩れ た

山頂近くの絶壁下に四国霊場八十五番札所・八栗寺が建ち

近くには安徳天皇ゆかりの六万寺や源平合戦の古戦場がある

「菊王丸の墓」

教経の弓に倒れた佐藤継信の首をとりに行った童武者・菊王丸が討たれ

主君・教経がその死を憐れんでこの地に葬ったと云われている

道端に腰掛けて休みながら、何気なく見ると「だんのうら幼稚園」

此の辺りが凄惨な戦いを繰り広げた入江なんだ

「遼遠からの汐風」と題した作品

与一公園には、石の里のアーティストたちの個性溢れる作品が並ぶ

駒立岩の側から、琴電八栗駅まで

牟礼「石あかりロード」が続く

日の扇を掲げた小船が沖に浮かぶ

的の下には、「射落とせるものなら射てみや」と

平家の女官玉虫が凛として立つ

屋島山上に、今は閉鎖されている休憩施設が見える

潮が引けば「駒立岩」が現れるが、丁度水の中に隠れていた

荒れる海の中、鞍辺りまで潮に浸し悠々と泳ぎ出で

この岩上で駒を止めた那須与一宗高が「南無八幡大菩薩」と

念じて鏑矢を放ち、扇の的を射落としたと語り伝えられている

”海には平家、舷(ふなばた)をたたいて感じたり

陸には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり〜”

琵琶法師が撥を弄して、平曲を謳い上げる名場面

半分埋もれた岩が「祈り岩」で、与一が扇の的を射る時

この岩に向かって一心に祈ったと云われている

そばに「いの里岩」と書かれた碑が立つ

腹が減っては・・・、八栗寺の麓にあるうどん屋さんへ寄り道

源氏軍が負傷した兵を運び込んだという洲崎寺

戦死した佐藤継信の菩提寺となっている

ここは、屋島合戦の折の激戦地で、その時の戦火で焼け落ちたが

すぐさま義経が再建したと伝えられる

境内には「香川県の保存木」と書かれた大イチョウがある

かつて海だった所に「弓流しの跡」の石碑が立つ

源平盛衰記などで語り継がれた屋島合戦での有名なエピソード

源平両軍が入り混じって戦っているうちに、弓を海中に落としてしまった義経は

家来たちが捨てるようにと言う言葉にも耳を貸さず、危険をおかして弓を拾う

強力で知られた叔父の為朝ほどの強い弓であれば、わざと平家に渡しても良いが

弱い弓が平家に渡ったならば、源氏の大将は非力だと笑われ

敵の勢いも増すだろうと語ったと言われている

総門跡

安徳天皇が六万寺を行在所としていた頃

海辺の防御に備えて門を構え平家の前哨としていた場所

此処で源平入り乱れて壮絶な戦いが繰り広げられたそうだ

射落畑(いおちばた)は、義経の四天王と言われた継信が忠死した場所

平教経の矢が、義経目がけて飛んできたせつなに

主の盾となって一命を捧げた平泉以来の忠臣・佐藤継信の

墓と「胸板をすえて忠義の的に立ち」と書かれた顕彰碑が建つ

屋島南嶺もいい姿〜

さぁ、駐車場まではあと少し!

車道歩きに相当くたびれた頃、やっと屋島神社が見えた

真夏を思わせる暑さに、熱中症寸前です

源平ロマンどころじゃ無かったわ


(参考文献 吉川英冶全集「新・平家物語」)

新・平家物語に登場する医師・阿部麻鳥が

「何故、人間同士で血を流しあわねばならないのか」

「武門には敵味方もあれ、医には皆同じあわれな人々です」

と言って、敵味方の区別無く看護に当たる

800年余前の出来事とはいえ、身につまされる言葉だった

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