2007年10月07日 赤間関街道(中道筋)

長府城下〜下関大歳神社・白石正一郎旧宅跡

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

JR長府駅〜功山寺〜壇ノ浦〜赤間神宮〜海峡夢タワー〜大歳神社〜

白石正一郎旧宅跡〜JR下関駅〜(電車)〜JR長府駅  (8時間20分)

長州藩の海外貿易の中心地である赤間関(現在の下関)

その赤間関と萩・指月城を結ぶ3本の交通路が「赤間関街道」で

そのうち最短距離の中道筋(なかみちすじ)は

維新の志士達がかけていった日本胎動の道でもある

 

今年4月、萩往還と赤間関街道が合わさる明木市から萩・指月城まで歩いたが

何時かは下関に向って赤間関街道を歩いてみたいと思っていた

毎年4月初旬の日曜日に「海峡ウォーク」が催されているそうだが

今回は、そのイベントコース、吉田・東行庵よりシーモール下関

までの約30km を歩いてみようと、吉田まで出かけて来たが・・・

吉田・東行庵

長州藩士、高杉晋作は久坂玄端と共に松下村塾の双璧と

称された逸材で、西行に倣って号を東行(とうぎょう)とした

明治維新目前の慶応3年(1867)4月、29歳の若さで病死する

遺言により伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士 によって

遺骸を奇兵隊の本拠に近い吉田清水山に葬る

晋作に仕えていた愛妾おうの(出家後は谷梅処尼)が

この庵に住み、生涯、東行の菩薩を弔った

東行記念館の前に建つ歌碑

面白き ことも無き世に おもしろく   晋作

        すみなすものは 心なりけり       望東(野村望東尼)

幕末の風雲児と呼ばれた晋作は、下関で一般人から

兵を募って奇兵隊を創設する。この奇兵隊は軍隊の祖となり

明治維新の原動力として重要な役割を果たした

吉田の一里塚

毛利藩では萩唐樋札場を基点として、主要な往還道に

一里塚が設けられ、その目印として榎が植えられていたそうだ

山陽道との分岐、吉田旧街道が萩へと続く

地図を見ると、此処からJR下関駅までとてつもなく長いので

JR小月駅から歩こうと、移動したが駐車場が無い

駅員さんに聞くと、此の辺りに有料駐車場は無いとの事

それならばと、一駅下関よりのJR長府駅まで走る

 交番前の空きスペースに車を停め

8時10分 JR長府駅前出発

誠実そうなおまわりさんが「下関までは遠いですよ」と

心配そうに見送ってくれた

道路の拡張工事がされ、新しくなった店舗も

城下町らしい雰囲気を醸し出している

明治天皇崩御後に殉死した乃木希典(まれすけ)を祀る乃木神社

日露戦争時の乃木将軍は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれている

趣のある土塀が続く古江小路には

長府毛利氏5万石の城下町のゆかしさが感じられる

壮大な二重櫓造りの功山寺の山門(総門)

嘉暦二年(1327)の創建の曹洞宗寺院

足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬篤く隆盛を誇ったが一時衰退

安永二年(1773)長府藩主十代毛利許Fにより再建された

正面に見える仏殿は鎌倉期禅宗様式として国宝に指定されている

奇兵隊に扮した語り部の会の方が

下関観光キャンペーンで歴史体感紙芝居をするそうだ

境内には高杉晋作回天義挙の銅像が建つ

此の場所で決起した高杉晋作らは

藩内の意見を倒幕に統一し、薩・長・土の盟約を結ぶ

下関市立長府博物館

長府毛利家遺品や幕末維新資料を中核に

下関の歴史と文化が概観出来る様な資料が展示されている

紅葉すれば見事だろうなと木々を見上げていると

あら、木に白い花が・・・エッー! 桜!

館内は、丁度「龍馬と下関」の特別展が催されていてた

功山寺から野久留未街道を歩き、緩やかな峠を越えて来た

右手に火の山が見え出したから、此の辺りが前田集落かな?

海峡は近いわ〜♪

国道9号線に出ると、直ぐ「平家一杯水」の碑がある

この岸に辿り着いた平家の武将が、水溜りで渇いた喉を潤し

その美味しさにもう一杯すくって飲むと、不思議な事に真水が

塩水に変わっており、むせて吐き出したと伝えられている

11時15分 みもすそ川公園として整備されている壇ノ浦砲台跡

関門海峡に向かって設置された長州砲が火を噴き

四国艦隊を相手に戦った

この馬関戦争の指揮を執ったのが高杉晋作

義経八艘飛び

「流れに乗って一気に敵を突き破れ」と号令をかける平知盛

源氏方は潮の流れが変わるまで逃げ回るが、潮目が東から西に

向かって変わるや否や「いざ攻めかかれ」と攻め太鼓を打ち鳴らす

もはやこれまでと、平教経は義経目がけて船に踊りこんで来るが

義経はひらりと身を躍らせて他の船に飛び移る

ここでもボランティアの方が歴史体感紙芝居をされていた

「壇ノ浦古戦場蹟」「安徳帝御入水の処碑」「二位の尼の歌碑」が建つ

今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 

波の下にも みやこありとは

竜宮城をかたどった朱塗りの楼門・水天門を潜ると

安徳天皇を祀る赤間神宮

境内には安徳天皇御稜や平家一門の墓・七盛塚が有り

傍に「七盛の墓包み降る椎の露」と、高浜虚子の句碑が建つ

小泉八雲の怪談話に出てくる、此の墓の前で琵琶を弾いた

耳なし芳一の木像が安置されている芳一堂もある

安徳天皇御稜

わずか8歳の安徳天皇は二位の尼に抱かれて壇ノ浦に沈んだ

四国の各地に様々な伝説が残ってはいるが・・・

日清講和条約記念館

明治28年、隣接する春帆楼で伊藤博文や陸奥宗光と李鴻章らが

日清講和会議を行った。その時の会談の様子が描かれた絵や

当時の調度品等が展示されている

本陣 伊藤宅跡

お龍と共に下関にやって来た龍馬は、ここを自然堂と

名付けて寄留し、薩長同盟に奔走した

亀山八幡宮参道入口脇に、山陽道基点の碑が建つ

九州渡航の起地なり、山陽道第一塚なり<長門国志>と書かれている

赤間関街道(中道筋)は、赤間関から下関市吉田まで山陽道と重なる

ここから西は、関門海峡を渡り九州・長崎街道へと続く

亀山八幡宮

貞観元年(859)宇佐八幡宮勧請して創建

大内氏、毛利氏が社殿を修造して来た

今も市民の氏神さんとして崇敬されている

通りを隔てて右手には沢山の人で賑わう唐戸市場がある

「ふく」の銅像なんて、やっぱり下関らしいわ

でも、これは食べられない〜

秋田商会(現下関観光情報センター)

唐戸市場から南部町に向かう道沿いには

国の重要文化財に指定されている旧下関英国領事館や

華やかだった当時の面影が偲ばれる建物が沢山残っている

秋田商会内には童謡詩人金子みすずのコーナーがある

30階建て「海峡ゆめタワー」の高さは153m

側で見上げると超ダイナミック!

雨も降り出したし、最上階で休憩

歩いて来た海峡沿いの道が雨に濡れている

関門海峡に浮かぶ巌流島(正式名は船島)

慶長17年(16124月13日

此の島で武蔵と小次郎の雌雄を決する決闘が行われた

以前、巌流島へ伝馬船で渡った時には

まだ決闘の像を造っている最中で、歩き難い道もあったけど

随分と綺麗に整備されて、趣の変わった島になっているわ

雨も小降りになったので

山口県国際総合センター「海峡メッセ下関」を後にし

繁華街を歩いて下関駅方面へ向かう

源義経が平家追討の戦勝祈願を捧げた大歳神社

当時は、一二三(ひふみ)段築き「お祓い坂」と呼ばれる

この長い階段に祈りを込めたそうです(今、123段までは無い)

義経が弓矢を引く雄姿を印した「勝守」が授けられている

義経に倣って、高杉晋作ら幕末の志士たちも戦勝を祈願した

正面の大鳥居は、攘夷必勝を祈念して豪商志士・白石正一郎が奉納した

白石正一郎旧宅跡

此の辺りに白石家の浜門があり海へ漕ぎ出したそうだが

まさに新しい時代へ向かう黎明の門だったのだろう

回船問屋小倉屋の主人・正一郎は熱心な尊皇攘夷論者で

高杉晋作との親交も深く、奇兵隊を援助していた

明治維新の貴重な資料となる日記が残されているが

白石家に滞在した三条実美ら七卿の様子、西郷隆盛、大久保利通

木戸孝允等、四百人余に及ぶ多くの志士達との交流が記されている

記録によると、土佐を脱藩した龍馬も、最初に此処を訪れたそうだ

 

JR下関駅に隣接する「シーモール下関」が賑やかそう

本日改装オープンだって、ちょっとショッピング〜♪

下関駅4時21分発の電車で長府へ

 

30kmは歩かなかったけど

歴史の宝庫、下関は美味しいものも沢山

ちょっと贅沢な「維新海峡ウォーク」でした

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