2007年11月04日 遠登志から西赤石

仲持ちさんの歩いた道

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 
遠登志登山口〜第三通洞〜兜岩〜西赤石〜銅山越〜第三通洞〜遠登志登山口

(8時間50分)

江戸時代、別子銅山で精錬された粗銅は瀬戸内海を渡って大坂へ送られた

標高1600m級の山々が連なる赤石山脈の険しい山道を越えて

銅山と海岸の往復を担ったのが「仲持ちさん」

今回は、その仲持ちさんが歩いた道を往時を偲びながら歩いてみました

県道脇に建つ仲持ち像

6時40分  「仲持ちさん おはようございます」と

挨拶して、遠登志渓谷(おとしけいこく)の遊歩道を歩き出す

 通行止めのロープが張られているんだけど・・・

あらら、谷が崩れて

遠登志橋(おとしばし)の手前で道が寸断されているわ

仕方が無いので引き返す

 せんうん橋の袂で、50年も続いている山口食堂(遠登志食堂)を

きりもりしているのは、元気な楽しいおばちゃん

6時50分 食堂横の急な石段を上がると

木々で覆われてあまり展望の無い、「展望所」へ出る

(食堂より200mくらい南の県道沿いに、正規の登山口がある)

故郷が誇る、沓掛〜黒森の大キレットが朝日に輝いている

笹ヶ峰から流れ出し瀬戸内海に注ぐ国領川に建設された鹿森ダムは

昭和37年4月に完成した総貯水量約160万トンの県営ダム

「別子の湖」と呼ばれるダム湖にはボートが浮かんでいる

そういえば、子どもの頃に乗ったわ

高校の遠足で、賑やかにお弁当を広げた遠登志橋が見える

ビートルズファンのMちゃんは、ポールと結婚するとか言っていたなぁ

今日は、久し振りに渡るのを楽しみにしていたのに残念

小女郎川に架かる遠登志橋は明治38年、総工費4198円20銭をかけて

建設され、別子山や東平からの生活道、坑内排水路として利用された

平成17年に、国の登録有形文化財になったそうだ

展望所から藪いている道を進み、広い仲持ち道に飛び出してから

少し進むと遠登志橋の分岐

ロープは張られているが下りては行けそう

ゆっくり高度を稼ぎながら歩いていくと

「東平を経て銅山峰へ 近道」の指標が立つ

そりゃ、近道しなくっちゃと急坂を頑張ったが

40kg余もの粗鋼を背負っていては、大変だわ

銅山の粗鋼を運ぶ仲持ちさんは、常時600人余りにものぼり

この道は、毎日数百人の中持ち行列が続き、銅山街道とも呼ばれていたそうだ

幕府御用銅山の威光から、仲持さんが通る時はみんな道を譲ったらしいが

御威光が無くても、重い荷物を背負っているんだから、自然と避けてあげるわ

急坂を頑張ると、第三通洞のある広場まではほぼ平坦道

ゴウゴウと流れる足谷川の瀬音を聞きながら進んでいると

巨岩を削って造られた道が現れる

まるで「下ノ廊下」みたい〜

歩き始めて一時間弱、中の橋に着く

朽ち果てた木橋に代わり、丈夫そうな鉄板の橋が架かる

橋を渡らず、真っ直ぐ進むと東平(とうなる)に出るが

仲持ち道は、橋を渡って右岸を進み第三通洞の広場を目指す

石垣が崩れかけている集落跡

東平地域の集落、柳谷、唐谷、一本松、第三、喜三谷(きぞうたに)

辷坂(すべりざか)、東平、呉木、尾端(おばな)には銅山の社宅が沢山建ち

大正14年の記録によると835戸もの家があったそうだ

「銅山の里自然の家」、「歴史資料館」、駐車場が見える

標高750mの東平に、別子銅山の採鉱本部が置かれていた頃は

鉱山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には3800人もの

鉱山関係者やその家族が住み、山の町として賑わっていた

しかし昭和43年、東平抗休止により皆山を下り無人となる

対岸に大きな滝が見える

「ちょっと、待ちよって」 と言うなり、ザックを放り出したグランパは

転がるように谷川まで下りて行って、なかなか上がって来ない

あらあら、仲持ちさんは仕事中にそんな事しませんよ〜

重たい荷物は、一旦下ろすと再び背負うときに苦労するので

「おいこ」の下に杖をあてがい、立ったまま休んだそうだ

この滝、良く見ると上部に水路があったらしいが

それにしても綺麗〜

仲持ちさんの労働時間は朝の6時から夕方6時まで

夏はいいけど冬の道は暗くて寒かっただろうな

一回に担ぐ重量は、男12貫(45kg) 女8貫(30kg)が最低基準で

これを割れば賃金は貰えず、量を増やせば歩合が増えたそうだ

男なら一回に銅板2枚、24貫(90kg)を担がないと

一人前と認められなかったと記録にあるけど、本当かしら

信じられん!

8時20分 第三広場に着く

別子銅山近代化に貢献した第三通洞の遺構がある

広場に置かれたベンチに腰掛けて休憩

東平と日浦を結ぶ日浦通洞が貫通してからは

此処を走る「かご電車」が一般にも利用されていた

子供の頃に乗ったような記憶も有るが・・・?

繁栄の昔を偲ばせる立派な赤レンガ造りの建物は、旧東平第三変電所

”別子銅山かね吹く音は〜♪ 聞こえますぞな立川へ〜♪(銅山節)

と歌にも唄われた、日本三大銅山の一つ、別子銅山の”宝の山”は

幕府の財政を支え、明治維新後は住友財閥を生み

新居浜を四国一の工業都市に育て上げた

元禄年間から280年余り、ともし続けた灯は

鉱石の枯渇により、昭和48年3月末静かに消えた

8時30分 第三通洞の広場を出発

仲持ちさんは此処から、柳谷を通り銅山越えへ向かったけど

反対方向の兜岩へ、ちょっと寄り道〜

仲持ちさんの運搬ルートも時代とともに変わっていったそうだが

最初は、銅山川を渇野まで下り、小箱峠を越えて土居町天満浦へ出るコース

新居浜が西条藩領で通れなかったとは言え、このコースは、延々35kmの悪路

そこで元禄15年(1702)、幕府の後押しで西条藩に運搬路建設を認めさせ

雲ヶ原峠、立川を通って新居浜浦へ出る18kmコースに短縮

更に、寛政2年(1749)には念願の銅山越え、最短ルートが開設される

急坂を過ぎると、上部鉄道の駅舎・一本松停車場跡に着く

海抜850mの石ヶ山丈と1100mの角石原を結ぶ上部鉄道は

急崖や谷渡りが連続する日本初の山岳鉄道

この分岐を、左に取ると石ヶ山丈を経て窓の滝、右に取ると銅山峰・兜岩

広々とした明るい、上部鉄道跡

以前日浦で、上部鉄道跡を見に来たという高知の親子に道を聞かれ

東平の道を教えてあげたが、うまく此処まで辿り着けたんだろうか?

「鉄道好きなの?」って聞いたら、中学生位の男の子はにっこりしていた

整然と積まれた石垣は残っているけれど、木々が繁り鉄道の跡が無いのは少し寂しい

七釜谷に架かるレンガ積みの橋台

木橋は朽ち果て渡れそうにないので、谷を歩く

その昔、鉱石、粗鋼、食料を積んだ四両編成の「別子一号機関車」が

煙を吐きながら、この鉄橋を「ゴットン、ゴットン」と走ったのだろう

珍しいドイツ製の機関車を一目見ようと、大勢の見物人で賑わったそうだ

裏谷に架かる橋台

機関車は、時速13kmとゆっくりした速度で崖っぷちを縫うように走っていった

銅山峰ヒユッテへ向かう道を右に分け

兜岩への急坂を登って行く

黄金色のカラマツを期待していたけど

もう終わりかけているのか少し色が冴えない

植林帯の単調な急坂は疲れるけど

明るいシロモジの黄葉に元気を貰う

相変わらず植林の中だけど、大岩が現れ出した頃から

自然林もぼつぼつと増えて来る

目の前に紅葉に彩られた大岩が現れるが

木々に遮られ登山道からは見え難いので

道を逸れて、谷へ少し下りてみる

紅葉の終わっている木も多いが、それでも綺麗!

 10時40分 橄欖岩が露出した兜岩 

5月には、目の前がアケボノツツジでピンクに染め上げられ絶好のビューポイント

春に劣らず、北斜面に広がる紅葉も素晴らしい

グランパが岩峰を散策している間、温かいコーヒーを飲みながらゆっくり休憩

兜岩からの展望も充分堪能したので、出発しようとした所へ現れたのは

赤石山荘のご主人、安森先生 「あらー! お久し振りです」

今日は、地質調査の方を案内して、これから東平へ下りるそうだ

先程から響いていたコンコンという音は、岩を叩く音だった

ひょっとしてダイヤモンドでも出るんですか〜?(笑)

話が弾み、御山祭りのエピソードには笑い転げたが

あんまり長話をして、調査の邪魔になってもいけないので

11時20分 西赤石へ向かう

もう少し、やっと出口が見えて来たわ

距離は短いんだけれど、歩き難い急坂

2,3箇所新しく、ロープが付けられていた

11時35分 西赤石頂上(1626m)

春には座る所も無い位、混雑している頂上も今日は貸切

刻々と変わる石鎚方面の表情は

見飽きないわ〜

お弁当を食べながらのんびり休憩

兜岩を見下ろすと、あらまだあんな所で岩を叩いているわ

今日中に下りられるんかしら?

雲が湧いて来たので、そろそろ下山

前赤石を振り返っている所へ、登って来たのは

あらっー、ペーコさん 「お久し振りです」

1年振りですねと話をしていたら、雲海が流れて石鎚方面がいい雰囲気に〜♪

ペーコさんは、これから兜岩経由で東平へ下りられるそうだ

第三で、また会えるかも分かりませんね〜

春にはアケボノツツジでピンク色に染まる北斜面

この辺りの紅葉は、そろそろ燃え尽きた感じ

北斜面を見下ろすと

銅山峰ヒユッテ辺りまで紅葉が下りていっている

頂上近くのカラマツ林は既に終わっていたが

東山付近の南斜面は、黄金色に輝くカラマツ林の黄葉が綺麗!

日浦谷の何処からか、「もう帰る〜ん」と言うかのように

一オクターブ高い「ケーン」という鹿の鳴き声が聞こえてくる

ヒュッテへの近道が見えて来たが、銅山越えへ出よう

今日は、仲持ち道を歩くのが目的

紅葉を楽しんでばかりいて、忘れてはいけないわ

 

赤い実に混じって、アカモノの花         アキノキリンソウ

11月だというのに、まだ秋の花が咲き残っている

今日は、暑くて汗ビッショリ

1時10分 銅山越えのお地蔵様

〜いつも寒いかよ 銅山やまは あわせことづけ 仲持ちに〜〜♪

仲持ちさんが、頼まれた荷物を運ぶ私設郵便屋を引き受けていた

情景が、新居浜地方の盆踊り歌に残っている

全盛を誇っていた仲持ちさんも、いつしか文明開化の波に呑み込まれてしまう

銅山峰を越える牛車道が出来て仕事の大半を奪われ

さらに上部、下部鉄道敷設により、昭和の始めにはその姿を消してしまった

「遠登志登山口迄2時間10分」の標識が立っているが、今は当時の道が残るのみ

仲持ちさんが通った往時を偲ばせる、苔むした石畳に

ハラハラと紅葉が散り始めていた

昔、上部鉄道の角石原停車場があった辺りに建つ、銅山峰ヒュッテ

エントツから煙が立ち上るのを見ると何だかほっとする

上部鉄道は、此処から5,5km先の石ヶ山丈(いしがさんじょう)まで敷設されていたが

明治44年第三通洞が貫通して、東平地区が粗鋼の中継の拠点となり廃止された

ヒュッテからの道は、橋が架け替えられたりよく整備されて歩き易い

後で知ったのだけど、仲持ち道は馬ノ背を通ったそうだ

銅山越えまで最短距離とはいえ、この急坂も大変だったろう

 3時30分 県道沿いの遠登志登山口着

橋の方へ歩いていたら、ペーコさんの車が通りかかる

「また、お会いしましょうね〜」

遠登志食堂で、美味しい山のお茶を頂きながら

名物おばちゃんと楽しい会話

おうどんご馳走様でした

 

四国山脈の山深い村・別子山村は

銅山最盛期には13000人を越える人々が住み、繁栄していた

そのヤマの人たちの生活を支えたのが

粗鋼や生活物資の重い荷物を担ぎ続けた仲持ちさんだった

開抗9年目の元禄12年には粗鋼産出高は一万三千余トン

当時世界一の銅産出国だった日本の28%を占めていた

勿論日本一で、世界でも最優秀の銅山として認められていた

現在、伝承と未来の鉱山遊トピア”あかがねの里 東平”として整備されている

将来、世界遺産の話も出るかもしれないが、石見銀山の混雑振りを見たら

静かにこのまま残しておいて欲しいような気もする

どう思われますか?

 

参考文献 「別子物語」朝日新聞松山支局編(昭和49年2月発行)

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