2007年11月17日  箸蔵街道

借耕(かりこ)牛の歩いた阿讃の峠道

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

JR箸蔵駅〜箸蔵寺〜二軒茶屋〜石仏〜百丁石〜JR財田駅

                                (5時間)

阿讃山脈を越える金毘羅参詣道阿波西ルート・箸蔵街道は

その昔多くの参拝者や物資が行き交い

また年2回、阿波から讃岐へ借耕(かりこ)牛が、鈴を鳴らしながら歩いた峠道である

その道の一部は、現在、JR土讃線財田駅の南から

途中の二軒茶屋までの約6kmが「四国のみち」として整備されている

今日は、箸蔵から財田まで此の道を、往 時の様子を偲んで歩いてみよう

讃岐財田駅で下りの電車に乗り、特急列車の通過を待つ

あっという間に通り過ぎたアンパンマン列車を

窓越しに見送りながら、思わずシャッターを切る

予定より少し遅れて発車のベルが鳴る。さぁ、箸蔵へ出発

7時45分 箸蔵駅を出発

標高149m 山門まで1250mと書かれた

遍路道の標識に従って、急坂を登って行く

急坂の途中で出会った方が

「財田まで歩くんかね。今、山門の紅葉が真っ盛りで綺麗なけん」

気をつけてなと、笑顔で見送ってくれた

「ありがとうございます」

何処かにモデルは居ないかな?

ちょっと、三好高校の山地農場に寄り道  待っていてくれました!

今日の主役の借耕(かりこ)牛

阿波の三好郡、美馬郡、麻植郡(おえ)等の平地に恵まれず米の取れない山間部は

牛を飼育し、その牛肥えを使った良質の葉煙草栽培が盛んだった

一方、讃岐では、田を耕す牛や人手が足りず、夏の田植えと秋の麦蒔きの年二回

阿波から農家の二男、三男が牛を連れて出稼ぎに阿讃の峠を越えて行った

田植え時は6月初旬から半夏生(夏至から11日目)まで約30日で、米約60kg

秋は10月末から年末までのおよそ二ヶ月で米約130kg

またはそれに相当する砂糖や賃金が支払われたそうだ

天保年間から続いたこの慣行は

農機具が発達、普及する昭和30年代後半には姿を消してしまう

何度か車道を横切り、快適な遍路道を歩く

風で揺るがされた樹冠からは紅葉のシャワー、ドンドン高度を稼いで行く

道沿いに、竹林が出始め前方が開けてきたと思ったら

高灯籠の建つ山門前に出た

側にはロープウェイの支柱が建つ

両脇に仁王様が祀られている山門を潜る

紅葉真っ盛り〜♪

山頂駅から下りて来たロープウェイが

紅葉の山腹へ吸い込まれて行く

 

紅葉に彩られた広い参道を歩く

箸蔵寺は天長5年(828)に空海が創建したと伝えられている

段差が緩やかな石段は足に優しい

いくら登っても疲れない

あらら、此の石段は急登

200余段を、奥之院まで一気に登ったら大汗かいたわ

此処から振り返ると、中津山や烏帽子山など、祖谷の高嶺が見えるはずだけど

今日は残念ながら、霧がかかり何も見えない

8時45分 金毘羅大権現が祀られる、八棟造りの美しい箸蔵寺本殿

金毘羅頭人祭の神事に使われた箸は

金毘羅奥之院として多くの信仰を集めている此処へ

その日のうちに運んで来るそうだ

また箸蔵寺は天狗が住むとされた修験の山であり

本殿正面には大きな天狗の面が奉納されている

大師堂のイチョウもハラハラと風に散っている

紅葉のトンネルを潜って、粛然とした古刹の境内を後にする

境内を抜けた所で、ロープウェイから上がってきた道と

合流して二軒茶屋を目指す

傷んだ跡も少しは残るが

道幅が拡げられた林道を快適に歩く

箸蔵寺へ二十三丁 讃州煙草問屋 阿波屋?と書かれた丁石が建つ

葉煙草の買い付けにやって来ていた讃岐の商人が寄進したものだろうか

阿波側には塩や米、麦が、讃岐側には葉タバコなどが大量に運ばれたそうだが

阿波と讃岐を結ぶ道は、藩政初期の時代すでに十三筋もあり

阿讃の物資の交流が活発だったのだろう

阿波の山里が段々遠くなる

美馬郡、三好郡の牛たちは、いろんな道を通って讃岐へと向かい

その総数は、昭和5〜10年頃の最盛期には夏、秋合わせて年八千頭以上で

財田、仲南方面へは主に、猪ノ鼻越えや東山越えをしていたそうだ

牛の足には、険しい山道で蹄が傷まないように草鞋が履かされ

まだ夜も明けきらぬうち、飼主に曳かれて阿波を発った牛たちは

暗く細い山道を上り下りし、午前中には讃岐に着いたという

馬除集落跡

軒下にソフャーが置かれていて、人の気配が感じられるが

何時頃まで人が住んでいたのだろう

将来、山里にこのような風景が増えるかもしれないと思うと、ちょっと淋しい

猪ノ鼻峠からの道と合流する所に、いぼ地蔵の指標が立つ

峠方向へ100m位、緩やかな坂を上がって行くと、小さな祠があった

昔、この辺りはかしの木が沢山有り、かしの木の峠と呼ばれていたので

お地蔵さんも「かしの木地蔵」と名付けられていたが

このお地蔵さんにお参りするといぼが治るという噂がたち

いつの頃からか「いぼ地蔵」とよばれるようになったそうだ

もともとは二軒茶屋の氏神様、山の神様の神祠だと思われる

と、説明板に書かれていた

10時35分 二軒茶屋(629m)

手前で、いきなりパンパンと大きな音がしたので驚いたが

間伐の仕事をされている人が、竹を燃やしている音だった

挨拶をし、ベンチに腰掛けて休んでいたら。七輪に炭を足しに帰って来て

「お湯が沸いとるよ。お茶の葉もあるから、淹れて飲んで」と、親切な言葉

温かくて美味しかった〜 「ご馳走様でした」

昔は、此処に二軒の宿があり、宿泊と茶の接待をしたことから「二軒茶屋」

と呼ばれ、昭和三十年頃まではくさやぶきの大きな家があったそうだが

今は、その屋敷跡も竹林が生い茂っている

落ち葉が敷き詰められたフカフカの道を峠に向かう

突然、オフロードサイクルに乗った人が現れたのには驚いた

さぞかし財田からの登りは大変だったんだろうな

二軒茶屋から30分弱で、石仏越えに着く

此処は標高約750mと街道中最も高く、六十五丁の丁石が立つ

そこから30mほど奥に石地蔵が鎮座する

昔々、此の峠には性悪狸が棲んでおって

夜道を通る人を化かしたという「峠の石地蔵狸」の話が残っている

石仏越えから、右方に延びる尾根を進めば東山峠への阿讃縦走コース

箸蔵街道は、直進し財田を目指して下って行く

石仏から少し下って来た所に祀られている薬師如来像

阿讃の峠を越える旅の安全を祈願して祀られたこの像には

「薬師 天保十五年辰二月吉日」と刻まれている

11時45分 展望休憩所

ちょっと霞んでいて遠望は利かなかったが、裾野には西讃の平野が広がっている

此処で、二軒茶屋の方に向かう方とすれ違う

紅葉の好時期、もっと沢山の方が歩いているかと思ったのに

今日歩いている人に会ったのは、二人だけ

箸蔵街道を横切る林道

以前財田から箸蔵寺まで歩いた時は、山肌が削られている際を通ったが

立派な林道が出来上がり、どんどん右の方へ道が延びていっている

洪水で傷んだ箇所も殆んど修復され、歩き易くなっている道を下って行くと

「箸蔵街道」の表示板が立つ林道終点に着く

財田町荒戸に立つ「箸蔵寺百丁」の道標

萬延元年1860)、奥州栃窪村(現 福島県鹿島町)の住人によって

寄進されたものがそのまま残っている

馬子唄や借耕牛の鈴の音が聞こえてきそうな雰囲気

ちなみに一丁は約109mだから、箸蔵寺から此処まで約11km

三豊市財田町の田園風景

遠くで野焼きの煙が立ち昇り、長閑〜

畦に座ってコーヒーを飲みながら休憩

財田駅は何処かな?と見れば、下の方に目印のタブノキが見えている

12時45分 財田駅着

駅舎より大きい樹齢700年のタブノキ(クスノキ科の高木で別名イヌグス)が繁る

電車に乗れば15分弱で着いた道のりを、5時間かけてようやく帰って来た

 

借耕牛たちにとっては、ここからが正念場

阿波を出る時、丸々肥えていた牛が、1〜2ヶ月間重労働の末

帰る時には痩せこけてしまったそうだ

ドナドナド〜ナ、ド〜ナ〜♪ ドナドナド〜ナ、ド〜〜♪ 

但馬や松阪に産まれていたら、こんな苦労はしなくて済んだかも

でも肉牛ってのもねぇ・・・・

(参考文献 「 人づくり風土記37 香川 」 社団法人農山魚村文化協会)

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