2008年 01月13日 松山街道・黒森越

脱藩志士も越えた黒森山

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

越知町役場〜仁井田神社〜薬師堂〜黒森山〜鈴ヶ峠〜池川町(日浦バス停)   

                                          (7時間20分)

 

街道の呼び名は行き先を示している

松山街道も、高知市から始まり越知から黒森越えで池川に下り

土居川に沿って遡り瓜生野峠を越えると伊予の美川村に通じ松山に至る

伊予からは、「土佐道」または「土州道」と呼ばれていた

この往還道は商人や庶民だけでなく、脱藩の志士たち

松山討伐に向かった土佐藩兵士、ジョン万次郎も歩いたそうだ

脱藩志士集合之地・赤土峠に建つ記念碑 (帰りに立ち寄り撮影)

元治元年(1864)8月14日、死を賭した血盟の佐川勤王5士が

脱藩のため集合した、佐川町と越知町の境にある峠

田中光顕伯(号を青山)の詩が残る

まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき

那須信吾の甥にあたる田中光顕は、龍馬や慎太郎らと交わって

尊攘運動に加わり、維新後、新政府にて要職を歴任

退官後は青山文庫を創立するなど、維新志士の顕彰につとめた

脱藩志士も歩いた松山街道を、越知から池川まで歩いてみよう

道はちょっと不安なんだけど・・・何とかなるよね

7時10分、越知町役場を出発

昔は渡し舟で今成へ渡っていたそうだが、今は中仁淀沈下橋が架かる

目指す池川は、ずーっと左奥、遠いなぁ〜

朝霧が立ち上る川面に、雄々しい横倉山東稜「兜岩」の姿が映る

仁井田神社境内に、真っ直ぐ聳える樹齢約700年のイチイガシ

このご神木は「堂ノ岡イチイガシ」として越知町文化財に指定されている

神社で写真を撮っていたら、先程、道を教えてくれた方が車で追いかけて来て

仁井田神社横から上る旧道は、表示も無く分かり難いから真っ直ぐ横畠まで行き

車道を左に上がったほうがよいと、親切に教えてくれた

堂ノ岡から旧街道に取り付く予定だったが、教えて貰ったとおり横畠まで車道を歩き

横畠から栂の森へと続く車道をショートカットしながら高度を稼いで行く

この辺りが、その昔「栂坂の険」と呼ばれていた付近なのかしら?

振り返れば、大蛇行する仁淀川が美しい!

旧道の標識「八里塚」跡

此処で、車道を横切るショートカットの道が見付けられなくて右往左往

段々畑につけられた道を上がって行くが、途中で道は途切れてしまい

壊れかけた石垣を這い上がり、何とか上の道に出られた

年配のご夫婦が農作業をしていたので「薬師堂」へ行く道を訊ねると

おばあさんの口から思いがけず「松山街道かね」という言葉が

飛び出したので嬉しかった。若い頃に、よく歩いたのかもしれない

農作業の手を休めて丁寧に道を教えてくれた

この辺りが「樺ヶ峠」かしら?

なんせ全然表示が無いので見当がつかない

段々畑の向こうに車道が見えるが

「八里塚」跡から真っ直ぐ車道を歩いた方が分かりやすかったかな?

おばあさんに教えて貰ったとおり、真新しい小屋から右手に杉林、左手に山椒畑を

見ながら進むと、尾根の右肩に沿ってほぼ水平に付けられている道があった

石垣が残っている所は昔の住居跡なのかもしれないが

今は歩く人もいないのだろう、沢筋は崩れて荒れたままになっている

道沿いに碑が建っているので「松山街道」と書かれているのかしらと

期待して覗き込むと、な〜んだ峰興寺植樹林と刻まれていた

山道から車道に飛び出し、薬師堂に向かっていると

前方に黒森山が見え出した〜♪

薬師堂まで2時間位の予定だったけど、道が分かり難く

此処で既に2時間40分、随分時間がかかったわ

此処、仁淀川に挟まれた標高350mの「薬師堂」は旧松山街道の要衝

かつては七軒の宿屋が軒を並べる宿場町だったそうだ

車道が四方から集まり、道路標識に柚ノ木、清水、深瀬、稲村と

書かれている交差点に大山祇神社の鳥居が建つ

鳥居を潜り神社にお参りし「虎吾堀」に向かう

あっ、肝心の薬師堂を見忘れたわ

引き返し探すと、小学校の西側に小さなお堂が建っていた

このお堂が地名の由来となった薬師堂

本当に、見落としそうな小さなお堂だった

R33(筏津)へ向かう道を左に見て、大山祇神社前の車道を上がって行く

この辺りは「栗の木」や「清水」の集落

遠くから雪を被った中津明神山が見守っている

10時20分 黒森山登山口

旧松山街道、ジョン万次郎帰国道、志士脱藩道と書かれた標識が立つ

歩き始めて3時間余、初めて「松山街道」の文字が見られた

何処からか水音が聞こえ出した、と思ったら

満々と水をたたえた「虎吾堀」用水池に着く

池の側には、小さな水天宮が祀られていた

山肌には「山の神の大田」といわれる棚田が広がっている

「山本虎吾堀」(明治二十年)と刻まれた自然石が建つ

「商人休場」と伝えられているこの辺りで、昔の人は

井戸端じゃなくて堀端会議しながら休憩したのかもしれない

黒森山東面の稲村谷から引かれて来た水が

導入水路を勢いよく流れ落ちる

勢いよく流れるって事は、急坂なのよ

しんどい!

登山道は植林の中

植林の木の間越しに、唯一展望が望めた場所

見下ろすと、横畠橋が架かる仁淀川が光っている

11時25分 四差路の朽木峠?(標高約800m)

尾根の右側に稲村からの登山道が合流する

左には旧松山街道が黒森山の左肩を巻くように続いている

峠から、頂上まで標高差は約200mだけど

小石が転がる急坂は、ずるずる滑って歩き難いわ

それにしても、この坂道は何時まで続くんだろう

見上げても見上げても、急坂が続き、一向に頂上が見えて来ない

さっき、目の前を横切った狐に化かされているんじゃないかしら (笑)

12時 黒森山(1017m)

急坂から飛び出すと黒森神社の鳥居が迎えてくれる

昔は、その名の通り樹林の生い茂った山だったんだろうが

明るい頂上は、鉄塔が立ち並びちょっと味気ない

下の集落から12時のサイレンが聞こえてくる

じゃ、お昼にする〜

三角点より北へ少し下った岩の上に、祠が祀られている

「黒鯛三社権現」の祠かもしれない

伝説によると、越知の魚商人が黒森越えに差し掛かかり

道端に仕掛けられた罠に掛かっている兎を見つけ

その兎が欲しくて、兎の代わりに黒鯛を罠に掛け帰って行った

見回りに来た村人が、罠に掛かった黒鯛を見て驚き、逃げ帰ると直ぐ床につき

病が癒えてから、山伏に祈祷して貰って鯛を葬り「黒鯛三社権現」として祀ったそうだ

此処から北を望むと、冠山、平家平が遠くに霞んでいる

12時30分 急斜面につけられた作業道を下山

西には、威風堂々とした姿の中津明神山がどっしりと構える

霧氷の華で装った筒上山、手箱山の南面が間近に迫る

途中、吾川村寺村への分岐を左に見て作業道を真っ直ぐ進む

1時 鈴ヶ峠(840m)着

鈴ヶ峠 (旧松山街道)と書かれた標柱には

他にも、松山討伐の道(慶応4年2月)

勤王志士脱藩の道 、中浜万次郎帰国の道と記してあり

その側に、二基の金比羅遥拝の灯明台が建つ

右の灯明台は「明治七戌年」、左は「天晴元卯九月十八日」と刻字されている

見た事の無い年号だが、他にも県内各地で天晴の年号が発見されているそうだ

高吾北の民衆が、幕藩体制に対して世直しを期待して使ったものらしい

結果的に、年号は明治と改元され天晴は認知されなかったけれど

高知らしい痛快さが感じられる

バスの時刻、3時30分には、充分間に合いそうなので、コーヒータイム

吾北と越知を結ぶ最短の道、黒森越え松山街道は

江戸時代には池川方面から越知へ製紙原料や茶が送られ

越知からは魚、塩、食料品を牛馬の背に乗せて運んだという庶民の交易の道

それが幕末には脱藩の道となり、土佐藩兵二千人が砲車を引いて

進軍した松山討伐の道となったそうだけど

仁淀川沿いに「大道」が通じ、黒森越えは往還としての機能を失い

黒森山山中に取り残された道となってしまっている

1時20分 灯明台右横から、大平へ向けて斜面を下って行く

取り残された道にしては、有り難い事にスズタケが

綺麗に刈り払われて歩き易い

呑気に歩いていたら、あらら、道が無い!

滑り落ちたら上がって来るのは無理かな?

急斜面の山腹を慎重に歩く

少し傾斜が緩くなってくると植林の道になり

作業道が枝分かれしていて分かり難いが、尾根通しに進む

ちょっと待ってー、こんな所に三椏が〜

やっと、南谷集落まで下りて来た

下りも、結構きつかった〜 R439はもう直ぐね

2時30分 黒岩観光・日浦バス停

国道沿いに、鈴ヶ峠を見上げるように立っている碑

清らかに流れる狩山川対岸からは、ひっきりなしに鳥のさえずりが聞こえてくる

狩山地区は、全盛期の明治中頃には全戸の80%が紙を漉いていたそうで

「狩山障子紙の里」(県無形文化財指定)の看板が立つ

井戸端会議していたおばあさん達に聞くと、今は紙を漉いている家は一軒も無いそうだ

3時24分発佐川行のバスに乗って越知町へ

帰途、越知町越しにドーム型の黒森山を振り返る

尾根はかなりの急勾配、しんどい筈だわ

 

歩く人の絶えた旧街道は、木が生い茂る山道となっていても

僅かに残る碑や灯明台、昔と変わらぬ景色を見ていると

多くの人々が歩いた跫音が聞こえてきそうな雰囲気が感じられる

大蛇行する仁淀川の流れに感動するのは、昔も今も同じだろう

 

(参考文献 山崎清憲著 「土佐の道 その歴史を歩く)

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