純信・お馬 ロマンの道

土佐の〜高知の〜はりまや橋で〜

坊さん カンザシ買うを見た

ヨサコイ〜♪  ヨサコイ

言うたらいかんちや〜おらんくの池にゃ〜

潮吹く鯨(さかな)がおよぎよる

ヨサコイ〜♪  ヨサコイ

土佐の民謡「よさこい節」に唄われた、純信・お馬 

気になる二人の足跡を辿ってみました

 

参考文献

追跡!純信お馬 駆け落ち百五十年 岩崎善郎著(高知新聞社)

純信の実像を探る            矢野安民著(高知新聞社)

 

時は、ペリー来航、安政南海大地震で揺れ動く、幕末の頃

四国八十八ヶ所三十一番札所・竹林寺の脇坊の一つ、南の坊の住職純信は37歳

一方、竹林寺東参道入口、五台山村長江に住む鋳掛屋大野新平の娘、馬は17歳

親子ほど歳の違う、僧侶と町娘が恋に落ち

駆け落ちするという、世間をあっと驚かす事件が起こった

それから、150年余

昨年末、よさこい節に秘められた純信・お馬の悲恋を脚色した

市民劇団ミュージカル「君をおもいて風が吹く」の公演があった

ミュージカルを見た後、川之江の国道沿いに建つ純信堂に立ち寄り

説明板を読むと、純信は美川村東川で没したと書かれている

東川は、今年米寿を迎えた父の故郷

父が生まれ育った神社が、残っているそうだ

純信お馬の悲恋の道を辿り、東川を尋ねてみよう

先ずは、純信が生まれ育った土佐市市野々(旧高岡郡)を訪ねる

国道56号線沿いに「僧純信生誕地」の案内板が立つ

要約すると、「純信は市野々の江渕要作の長男(幼名を要)として

文政2年(1819)10月10日に生まれ、9歳で仏道修行のため京都に上り

帰国後、五台山竹林寺南の坊住職となる。その後、お馬と恋仲になり駆け落ち

川之江で寺子屋を開いていた後の消息は不明であったが

愛媛県美川村で俗名 中田与吉 として祭られている事が判った」

可愛く描かれた相合傘の二人が、捕縛入牢の末追放された事に

触れていないのは、地元の心配りなのだろうか

案内板の側に、朱塗りの「純信橋」が架かる

他に、高知自動車道や村道にも「純信橋」があり

子供の頃の要ちゃんが遊んでいた辺りは、「純信」だらけ〜

純信生家跡近くに建つ「純信堂」

側に、川之江でお馬を想って詠った歌碑が建つ

夏の頃、菊のうたを恋しい人に遣わす

まち侘びし夏よりうえる菊なれば 秋咲くはなのものがたりして 純信

今は牧野植物園内にある、純信が住職をしていた竹林寺「南の坊」跡

此処から東へ1km下ると、お馬さんと待ち合わせした「逢引の岩」がある

四国霊場三十一番札所・五台山竹林寺

一方、五台山山裾、旧長岡郡屋頭村長江は

五台山小町といわれたお馬さんが生まれた所

「お馬生家の井戸」が残っている

生家跡より、五台山東坂を10分ばかり登って行くと「逢引の岩(お馬岩)」に着く

此処から眺める展望は最高

広々とした高知平野を隔てて、北山スカイラインが何処までも続いている

でも呑気に展望を楽しんでばかりもいられない

坊さんかんざし買うを見〜た〜♪ よさこ〜い よさこい〜♪

「お馬ちゃん、よさこい節聞いた〜? もう此処にはおれんがやき」

「そんなら、何処へ行く?」

「修行中に住んじょった京都がええろうか」

「私、行きたいちや!」

「讃岐まで、安さんに案内して貰ろうて峠を越えるけど、お馬ちゃん、大丈夫かい?」

「純ちゃんと一緒なら平気」 「じゃ、19日の夜に寺で待っちゆーき」

(俄か土佐弁、お聞き苦しい所はご容赦下さい)

橋の下を流れていた堀川も埋め立てられ、今は欄干だけが残る「はりまや橋」

道を挟んで向かいの土佐鶴が、その当時かんざしを売っていた橘屋跡

本当は、お馬の気を引こうとした、修行僧の慶全が橘屋でかんざしを買ったんだけど

その事で寺を追放され、その腹いせに「かんざし買ったのは純信だ」と言い広めたそうだ

あっちでヒソヒソ こっちでヒソヒソ たちまち高知城下に噂が広まり

おかしなことやなはりまや橋で坊さんかんざし買いよった

よさこい よさこい

当時、巷で歌い囃されたよさこい節が150年以上経った今も、全国で唄われている

 

安政2年(1855)5月19日夜半、二人手を携えて寺を抜け出し駆け落ち

舟入川沿いを山田郷へ向かい、物部川の北岸に沿って、昼過ぎには日ノ御子に着く

道案内は、楠目村(現香美郡土佐山田町楠目)の安右衛門

若かりし頃の純信が、五台山竹林寺の末寺である楠目村の吉祥寺に

弟、松蔵と共に居たから知り合いだったのかな

最初、何故予土の峠を越えなかったのだろうかと疑問だったが

勝手知った、抜け易い番所を選んだんだろうか?

猪野々の里は、心安らぐ長閑な雰囲気〜

余談ですが

歌人吉井勇が中央での名声を捨て

韮生の里・渓鬼荘を拠点として作歌活動を続けていた

与謝野晶子が、吉井勇を旅の歌人・西行と並び称しているが

”いのち短し 恋せよ乙女〜♪” と歌われる「ゴンドラの唄」の作詞家として有名

いつわりの 世に出でむより 大土佐の 韮生の峡に こもれるまされり 

猪野々なる 山の旅籠の 夕がれい 酒のさかなに 虎杖(イタドリ)を煮る

ちなみに、勇がこよなく愛した酒はフルーティーな辛口吟醸「瀧嵐」

最近開通した、猪野々と楮佐古を結ぶ松床楮佐古線の峠が

古くから、かけおち峠と言われてきた、八京峠

昨年、純信・お馬を偲んでこの峠に碑が建立されたそうだ

側に、夫婦松が仲良く並んでいる

純信・お馬も見た、八京峠からの展望

雪を被った綱附森、白髪山が、一際高く見える

神池寺谷集落にある大日寺

奈良時代、諸国行脚中の行基が、此処に立ち寄り

七堂蛾伽藍を建て自作の大日如来を安置したと伝えられ

弘法大師が二十八番の奥之院に定めたとも言われているが

こんな山間に立派なお寺が建っているのにはビックリした

昔から、池の大日様といわれ縁日には沢山の参詣者で賑わったそうだ

大日寺境内にある県天然記念物の大杉

 根回り9,4m 高さ60mと、とてつもなく大きい

樹齢800年という事は

側を駆けていく純信・お馬の二人を見送ったんだろう

神池集落にある女池から、奥物部方面を遠望

雪を被った綱附森が光る

物部村の北部に位置するこの辺りは、古来より上韮生郷(かみにろうごう)と呼ばれ

楮佐古、神池、黒代、安丸には、上韮生八十八ヶ所霊場巡りの石仏が安置され

明治元年の頃より多くの人が参拝して来たそうだ

亀ヶ峠手前にある、上韮生郷八十八ヶ所「亀ヶ峠札所」から少し進むと行き止まり

引き返してから県道を上韮生川沿いに進み、五王堂の分岐から

笹渓谷温泉のある笹川を遡ると土居番集落に、笹番所跡がある

天明年間(1781〜1788)、土佐藩内には86の番所があり

国境警備から、領民の逃亡監視、紙などの統制品監視、遍路監視にあたっていた

笹番所跡に白壁の土蔵と門屋(もんや) が残る

早朝だからか、番所には誰も居ないので、今日はなんなく抜けられたわ(笑)

立派な石垣が高く積まれている旧道沿いを歩いて行くと

半壊状態の廃屋が続く中で、最近屋根の葺き替えが行われたという

土居番観音堂だけが当時の姿を保っていた

番所の裏には、知る人ぞ知る抜け道があったそうだ

純信お馬は、一先ず笹番所は無事通り抜けて阿波を目指す

この辺りはナナヘツイ集落

この面白い地名、以前から気になっていたので調べてみると

此処は平家落人たちの炊飯の場で、釜が七つ設けられていた事から

ナナヘツイ(七つのかまど)が地名として残ったそうだ

熊が出てきそうな雰囲気だねと、辺りを見ながら走っていたら

「熊に注意」の看板が・・・やっぱり、出た〜!

お馬さんたちは会わなかったんだろうか?

明賀からは、林道笹谷線を走って矢筈峠(アリラン峠)を目指す

”笹の普賢さん”で有名な明賀の「普賢堂」にお参り

宝永5年(1707)建立の歴史を感じさせる、風格ある立派なお堂だった

盆踊りの縁日には、笹越え経由で豊永方面から、矢筈峠越えで阿波側からも

沢山の人がやって来て、境内で一晩中踊り明かしたそうだ

標高1000m付近で、深い新雪のため車がギブアップ!

引き返していると、前方に聳える土佐矢筈山が白く輝いている

本日の駆け落ちは、此処で取り止め〜(笑)

真っ白!な土佐矢筈山をズーム

頂上一帯の笹原を見て、昔はこの山を「ササハゲ」と呼んでいたそうだ

二人が、この辺りに差し掛かったのは、高知を出て3,4日目

5月も下旬という事は、ミツバツツジが山をピンクに染めていただろう

でも明賀からは、標高差500mの険しい山道

花を愛でる余裕は無かったかも

雪も融け始めたので再度、矢筈峠(標高1240m)へ

此処までくれば、もう一安心

姿の綺麗な山、展望もよさそうだし・・・ちょっと登って来ようよ

お馬ちゃん 伊予の国が見えるよ〜

あの一番高い山が、石鎚山かな

そのずっと左が土佐の山、もう、これが見納めかもしれない

土佐矢筈山(1606m)

祖谷の山が、目の前に並んでいる

あの山々のズーッと向こうに京があるんだよ

 

矢筈峠を越えれば、阿波の国・東祖谷山村

其処からは、オコヤトコに出て危険な山あいの道を祖谷渓谷沿いに下って行くと

土佐、伊予、讃岐の国境近くに、四国の辻といわれた阿波の白地番所がある

加番役であった白地村庄屋・三木又蔵の辞世の句

山高く 水筋長し 冬の月 に見られるように

峻険な山がそばだつ祖谷渓谷沿いの道は、思わぬ時間がかかり

月明りを頼りに旅をしなければならない事も多かったのだろう

池田からは、猪ノ鼻峠を越えて讃岐に入る

伊予見峠を経て、琴平町川西の牛屋口、金毘羅参道”一の坂”へと続く伊予・土佐街道を歩く

牛屋口には、土佐の金毘羅講信者から奉納された沢山の灯籠が並んでいる

純信・お馬の駆け落ちから10年後の、幕末の頃

土佐から多くの脱藩の志士が、此処を抜け金毘羅から丸亀の港へと急いだ

峠には、急ぎ足の龍馬像が建つ

伊予・土佐街道の終点、金毘羅表参道の”一の坂”

其処から数段上に並ぶ、讃岐一刀彫直売所「美松商店」、「休み処 から志しや」

この二軒の土産屋が、二人が捕らえられた旅籠、高知屋跡

(一説には備前屋で捕らえられたともいわれている)

丸亀から船に乗り、京に向かう夢は儚く消え、土佐へ連れ戻される

後、一歩のところで駆け落ちはお終い

その後の純信とお馬さんがどうなったかって?

4ヶ月の入牢の後、山田橋番所、三ツ頭番所(松ヶ鼻)、思案橋番所で

3日間、面縛(晒しの刑)に処せられ、別々に追放

江ノ口川に架かる「山田橋」(現はりまや町3丁目)

江戸時代、高知城下の北の玄関口だった山田橋番所が直ぐ側にある

その昔、長曽我部元親が山田城(現香美郡土佐山田町)城下町の住民を移し

この界隈を「山田町」と名付けたそうだ

高知の海の表玄関として賑わった松ヶ鼻番所跡

堀川、鏡川、浦戸湾の水が交わる事から、三ツ頭番所とも言うそうだ

二人並んで筵に晒されているのを、多くの人が群がって見たであろうが

「お馬さんは可愛らしう御座いましたが、坊さんはいがいが坊さんでありました」

「純信は四十歳ばかりに見え、肥肉鬚髯(しゅぜん ほおひげとあごひげ)

多くして美なる僧には非りしが、馬は未だ14,5歳の少女の様で肥肉色白

眼清やかにて、美婦なりき・・・」と、記録も残っている

あらら、純信さんのイメージが壊れてしまったわ

思案橋番所跡

大正15年に架けかえられた橋は、僅かに痕跡を残しているだけで

橋とは名ばかり、車で走ったら絶対に気がつかないわ

昔は此処から城下へ入るのに、通町、水通町、本町の3つの町のうち

何処を通って行こうかと思案した所から名付けらたそうだ

 

安芸川以東に追放となったお馬は、安田村神峰の麓

旅館阪本屋で女中奉公していた。其処へ純信がやって来て、お馬を連れ出そうとしたが

いさかいとなり、再び捕らえられ、その後須崎へ追われる

もう逃避行はこりごりだったのだろうか

当時の須崎郷の庄屋は、後に龍馬と共に脱藩した勤皇志士・吉村虎太郎

庄屋預かりとなった馬は、この地で寺崎米之助と結婚し3人の子に恵まれたそうだ

須崎市池ノ内に建つ「お馬神社」

哀しい人生を乗り越え、この地で良縁に恵まれたお馬さんにあやかって

今は、縁結びの神様としてお参りされている

祠の左には、安永4年(1707)10月4日に起こった大地震の「寛永津波溺死之塚」が建つ

側の二股に分かれた大杉には、身に覚えの無い疑いをかけられた女性の悲話が残る

明治18年、お馬さん47歳の時、一家で上京

初孫にも恵まれ平穏な日々の中、明治36年12月15日 66歳で没する

昭和47年、東京都北区都豊島の三縁山・西福寺境内に

お馬塚と銘した一基を建立し、波乱万丈の生涯を送ったお馬さんの菩提が弔われている

 

一方、名を岡本要と改めた純信は

立川番所を経て、伊予の国へ国外追放となる

参勤交代の折、藩主が宿泊した旧立川番所書院

「立川番所」は岩佐番所、名野川番所と並ぶ国境警備の要衝の一つ

土佐北街道・土予国境越えの基点として、重要な役割を果たしていた

土佐北街道 「北山(笹)越え」の峠 (1010m)

峠のすぐ上が笹ヶ峰頂上(1016m)

此処は、土佐と伊予の国境

県境標柱の側には、九代藩主、山内豊雍(とよちか)候の歌碑が立つ

この峠を越えると、いよいよ伊予の国

こんな時に、駄洒落を言っている場合でも無いけど

昔の名残を留める峠に立つと

純信のせつない気持ちが思いやられる

四国中央市川之江に、純信堂、娚石亀吉の墓碑が建つ

川之江にやって来た純信は、土地の顔役娚石亀吉の世話で寺子屋を開く

その高い教養を認められ、文人墨客たちとも交わり安定した日々を送っていた

純信が、須崎にいるお馬さんへ宛てた恋文

「たとい何年かかりても連れに行き申すべく候」

この熱い想いは、残念ながらお馬さんの元には届かなかった

世話になっていた娚石亀吉の死後、純信の消息は途絶える

はて、何処へ行ったのやら?

それから、130年余り後

はりまや橋袂の菓子舗「浜幸」の主人が、ひょんな事から

美川村で食堂を切り盛りしている高橋シズエさんと出会う

なんと!シズエさんは純信の曾孫だという

川之江で、美川村から奉公に来ていた女性と親しくなり

その縁で、この地にやって来たのか?

はっきりした事は分かっていない

晩年は、美川村で住職として安住し

大川嶺を見ながら、心穏やかに過ごしたんだろうか?

その後、郷土史研究家の方たちによって

愛媛県美川村東川で明治21年(1888)69歳で没し

慶翁徳念和尚 俗名 中田与吉 として祀られている事が判った

私は此処にいる!

純信が叫んだのかもしれない

今は、元の墓所側に立派な無縫塔が建ち、国道494沿いに

「土佐民謡「ヨサコイ節」の主人公 僧 純信の墓所」の説明板が立てられている

美川村東川には、父が生まれ育った神社が、まだ残っていた

純信と父の曽祖父は同世代、出会っていたとしても不思議ではない

僧侶である純信と神主であった曽祖父、なんらかの交流があったかもしれない

そう思うと、何故か純信が身近に感じられて来る

今まで参勤交代道、脱藩の道、色々な道を歩いたけれど

まさか「駆け落ちの道」を辿る事になろうとは・・・

 

純信が没してから120年経った美川の里では

今も、変わらず春を告げる三椏の花が咲いていた

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