2008年05月30日  薩 摩 

 

高速を下りると 標識「安全運転 お願いしもんで」 と迎えられ

やっと鹿児島に着いた〜と実感した

地図で見ても遠いけど、やっぱり遠かったわ

錦江湾に浮かぶ鹿児島のシンボル・桜島

天気は回復してきたが、噴煙を上げる姿は望めなかった

でも、最初は雨の予報だったんだから、青空が見えただけで感謝よ

鹿児島に来る事があれば真っ先に、知覧を訪ねたいと思っていた

つい最近、「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」 を読み

何としても日本本土への空襲、侵攻を防ごうと身を挺して戦った硫黄島は

まさに鬼神を哭しむる戦いだった事をまざまざと知ったばかりだった

 栗林中将 訣別電報に添えられた辞世

国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

特攻隊員の宿舎であった「三角兵舎」が復元されている

出撃前夜、此処で壮行会が催され、酒を酌み交わしながら

隊歌を歌い、薄暗い裸電球の下で遺書を、あるいは別れの手紙をしたためた

敵艦に体当たりし命中すれば、戦いを勝利に導き、日本国は安泰だという事を信じて

沖縄の空に飛び立ち、散華していった

特攻勇士の銅像 「とこしえに」

右手は永遠の平和を、左手は固い決意が秘められた特攻隊員の出撃時の姿

開聞岳を仰ぐ眼は、生もなく、死もなく、すでに我もない隊員の仏心を表している

御霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ

りりしい姿を永久に伝えたい 心を込めて

ああ、開聞の南に消えた勇士よ

清き名を とわに残して 国のため 身をささけけむ 若きもののふ

帰るなき 機をあやつりて 征きしはや 開聞よ 母よ さらば さらばと

世界恒久平和を願い建設された 「知覧特攻平和会館」

館内には、平和を願いながら此処から飛び立ち、沖縄の海に散った1036人の

若い隊員達の遺影、遺品、手紙、遺書や、戦闘機「隼」「疾風」「飛燕」が展示されている

「お国のために飛び立ちますが、くれぐれも悲しまないで私の分までも長生きして下さい」

「十分親孝行出来ませんでした事をお許し下さい」

どの手紙も、残った家族の事、特に母の事を心配する文面が

几帳面な文字で綴られていて、読んでいると目頭が熱くなって字が滲んで来た

飛び立つ我が子へ宛てた母の手紙は、短い言葉の中に無限の愛情が溢れている

「最後は必ずナムアミダブツと唱えてくだされ、決して決してナムアミダブツを忘れては成りませぬぞ」

語り部の方が淡々と話される内容の壮絶さに、平和のありがたさを噛み締め

南の洋上に散っていった若い隊員たちの事を、何時までも忘れては成らないと思った

 「ホタル館 富屋食堂」

特攻の母と慕われた鳥濱トメさんが、当時きりもりしていた軍指定の食堂兼旅館

映画 「俺は、君のためにこそ死ににいく」の中で、トメさんは語る

「知覧の町になぁ、大勢の若者が集まって来ておいもした。みんな、ただただ空を飛ぶこち

憧れて、必死に飛行訓練を受けておられもした。思えば、もう昔のこっかも知れもはんが、

そいでん私には、ついこん前のご、いつまでん忘れるこっができもはん。

思い返せば思い返すほど、みんな素晴らしか、美しか若者たちでございもした」

ふもと公園にあるお茶屋さんで、頂いた美味しい新茶

素敵な笑顔の応対に、心までもほっこり温かくなりました

知覧茶の起源は、平家の落人が北部山間地の手蓑に、茶栽培を始めたと伝えられている

透き通った若緑色とさわやかな香りが特徴で、現在では茶園面積1200haを超える国内有数の茶所だ

知覧武家屋敷群(国選定重要伝統的建造物群保存地区)

ふもと川のほとりに、厳かな腕木門が並び江戸時代さながらの家並みが続く

島津藩政時代、藩内に築いた外城で、折れ曲がった木馬場通りに沿って石垣が連なる

此処に、琉球貿易の拠点があった事から、琉球の影響を受けた様式が随所に残り

260年余の歳月を経て、歴史の息吹を今に伝え、「薩摩の小京都」と言われている

母ヶ岳の優美な姿を借景にした「平山克己氏庭園」は

大海原に無人島が浮かぶ枯山水

琉球の庭園文化伝播を知る上で貴重な存在として

武家屋敷の7庭園が国名勝に指定されている

深山幽谷の景を醸しだす「佐多民子氏庭園」 

石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているようだ

積み重ねた巨石や奇岩は、麓川の上流から運んだ凝灰岩質のもので

あまりに大きかったため、石目にそって割ってから運んだそうだ

鯉が遊泳している清流溝に、梅雨の花・紫陽花が彩りを添える

歴史ある武家屋敷群にふさわしい、古風で落ち着きのある佇まいの町並み

知覧から少し郊外へ出ると、一面に緑の茶畑が広がる

シラス台地が生んだ美味しい水、澄んだ空気の中で育っている「知覧茶」

美味しかった筈だわ〜

開聞岳の噴火により陥没して出来た池田湖

周囲15km、水深233mの藍色に輝くカルデラ湖で、九州最大

1月には菜の花で湖畔が彩られる

池田湖の主・イッシー君は、とても愛嬌ある表情で迎えてくれた

池田湖の大鰻は、一寸不気味〜

瀬平海岸から望む薩摩富士

海岸線沿いの国道226号線を走っていると、老松の間から開聞岳が現れた

国道から、波打ち寄せる岩礁まで下りてみる   ダイナミック冨士!!

その昔、この辺りは「瀬平の瀬渡り」といって、海に突き出た岩礁を波しぶきを浴びながら

跳んで渡らなければならないので人々に恐れられた難所だったそうだ

昭和4年、この地を訪れ、洋上に屹立する開聞岳の雄姿を見て詠んだ与謝野鉄幹 晶子の歌碑が建つ

迫平(せびら)まで  我れを追い来りて  松かげに  瓜を裂くなり  頴娃の村をさ  (鉄幹)

片はしを  迫平に置きて  大海の  開聞が岳  立てるなりけり   (晶子)

日本最南端の駅、JR指宿枕崎線「西大山駅」 (北緯31度11分)

ちなみに、最北端の駅は「稚内」 最東端の駅は「根室」 最西端の駅は「佐世保」

此処から、最北端の稚内まで3126kmだそうだ

JR薩摩今和泉駅

篤姫観光ガイド総合案内所が駅舎内にある

天保6年(1835)12月19日、今和泉家五代当主・忠剛の第四子、一子(かつこ)として生まれ

後に、島津家二十八代当主・島津斉彬の養女となり、名を篤姫と改める

ペリー来航に揺らぐ安政3年(1856)、近衛忠煕の養女として第十三代将軍徳川家定に嫁すが

僅か一年半後に家定が亡くなり、天璋院と号し、その後の幕末動乱期に徳川の為に尽力

故郷を離れてから一度も桜島を見ることなく、明治16年(1883)、49歳で没す

現存する写真からは、聡明で芯の強さが窺がわれる

まさしく 「薩摩おごじょ」 の代表だ

薩摩今和泉駅から、江戸時代の風情を残す町割と呼ばれる狭い路地を歩き

樹齢300年以上といわれる老松が並ぶ隼人松原に出ると、屋敷跡がある

現在は今和泉小学校で、校庭には井戸や篤姫が使ったとされる手水鉢が残っている

「裏座敷は海に面していて、とくに夏場は涼しかった。座敷から草履を履いて

庭に出、石垣の間の段々を十ばかり下りると、そこはもう砂浜になっており

つい目の前には波が打ち寄せていて、子供には絶好の遊び場所であった」と

宮尾登美子原作の「篤姫」に書かれている通り、雄大な浜辺が広がっていた

福岡から大型バス2台でやって来たという観光客が、ガイドの説明に聞き入る

屋敷跡といっても、校庭には入れないんだけど

此処最近、NHK大河ドラマ「篤姫」で一躍人気スポットになっている

先月は、北海道からも見学に来たそうで、急遽、海岸に駐車場が整備されていた

酒屋さんにの店頭には、篤姫ブームの焼酎がずらっと並ぶ

あら、ワインまで・・・  似合わないわねぇ

薩摩はやっぱり芋焼酎よ!

でも、こんなに買って誰が飲むの?

史跡 鶴丸城址

本丸跡には歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館が建つ

およそ270年間、島津家の居城であった鶴丸城は、天守閣が無い屋形造り

鹿児島市内に入ったのは日も暮れかかった頃、城内と磯庭園が見られなかったのが残念

おまけに、西郷さんの写真も大魔神みたいで披露出来ない、また会いに来なくちゃ

鶴丸城を後にして、日本一の「蒲生の大クス」を見に行く途中で

夕闇迫る川辺りを、明るくするばかりのホタルが舞っていたわ〜♪

 

今までは、鹿児島で思い浮かべる人は誰?と問われたら

迷わず、内村鑑三も挙げる代表的日本人の筆頭 「西郷隆盛」 と答えただろう

でも、今年だけは、ひょっとしたら 幕末のスーパーレディ 「篤姫」 かな?

鹿児島の地を訪れたのは、今回で3度目

南薩摩まで足を延ばし、初めて知覧特攻平和会館を訪れる事が出来た

国を想い、父母を想い、永遠の平和を願った勇士たちに

尊敬と感謝を捧げたい

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