2008年06月21日 伊予(い〜よ)山の辺の道

いで湯溢れる「山の辺」に歴史ロマンを求めて

石手寺〜松山神社〜一草庵〜ロシア人墓地〜輕之神社・比翼塚

( 約10km  ゆっくり5時間でした )

 

参考文献

「伊予山の辺のみちを歩こう会」発行 ガイドブック

        「愛媛県の歴史散歩」 愛媛県高等学校教育研究会 山川出版社

 

「美しい日本の歩きたくなるみち500選」を見ていたら

道後山沿いから寺町や名所旧跡を巡り、輕之神社・比翼塚まで歩く道が

「伊予(い〜よ)山の辺のみち」として紹介されていた

松山といえば、城、俳句、坊ちゃん団子に道後の湯

万葉集にも詠われた道後界隈を、ガイドブック片手にのんびり歩いてみよう

地元では「お大師さん」で親しまれている四国霊場第51番札所石手寺

神亀5年(728年)聖武天皇の勅願寺として建立

石手寺入口にある衛門三郎の石碑

伊予国荏原郷の衛門三郎が、我が身の悪行を悔いて霊場を巡り

21回目に逆打ちした時、病に倒れた彼の前にお大師さんが現れ

衛門三郎と書いた石を握らせると、三郎は懺悔の涙を流し息絶えた

数年後の弘仁2年(813年)、伊予の豪族・河野氏に男子が生まれた時

手に固く「衛門三郎」と書かれた石を握っていて、その石を寺に納めたと伝えられている

(衛門三郎は焼山寺山山麓の杖杉庵に、四国遍路の元祖として祀られている)

石手寺から洞窟八十八ヶ所霊場を抜けて「風土記の丘」へ行く道は

工事中だそうなので、道後へ向って、川沿いの車道を歩く

にぎたつ会館の所から坂を登りきると、伊佐爾波神社の石段の前に出る

国重文の社殿は、宇佐八幡宮(大分)、石清水八幡宮(京都)と並ぶ日本の三大八幡造りで

誉田別尊(ほんだわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)

息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)が祀られている

伊佐爾波(いさにわ)とは、清浄な儀式の庭の意味だそうだ

  

神社回廊には、奉納された沢山の絵馬や6体の神輿が置かれていた

10月7日の秋祭りに、此処から繰り出すけんか神輿

勇壮な鉢合わせを、いっぺん見てみたい!

135段の石段を下りていると、何時しか雨も止み

正面に松山城が霞んでいる

花街の雰囲気を残すネオン坂を上がって行くと、宝厳寺山門が見え出した

小説「坊ちゃん」の中で、「山門のなかに遊郭があるなんて、前代未聞だ」と

書かれていた遊郭「朝日楼」は、2,3年前に取り壊されたそうで駐車場になっていた

時宗の開祖・一遍上人の生誕寺、宝厳寺(ほうごんじ)

室町時代作、寄木造りの一遍上人立像(国重文)が本堂に安置されている

境内には沢山の句碑が建つ

色里や 十歩はなれて 秋の風   子規

文字は、句集「寒山落木」(明治28年作)の子規自筆を拡大したもの

あかあかと一本の道通りたり 霊剋る(たまきわる)わが命なりけり  茂吉

昭和12年、当寺を参拝した茂吉の自筆

鷺谷墓地へ行く前に、ちょっと道を逸れて、道後温泉本館に立ち寄る

明治27年(1894)建造、3層楼の本陣風建築がいかめしい

日本最古の名湯は、景行天皇、仲哀天皇、神功皇后来浴の伝説があり

聖徳太子、舒明天皇、斎明天皇、中大兄皇子(天智天皇)大海人皇子(天武天皇)

を始めとして、層々たる著名人の名前が記されている

夏目漱石が愛用した部屋、「坊ちゃんの間」もある

三層から飛び出た「振鷺閣(しんろかく)」と呼ばれる太鼓楼が一際目立つ

屋上で羽ばたくシラサギは、湯に浸かって傷を癒していたという白鷺伝説に因む

朝夕6時と正午の一日に3回 太鼓楼で打ち鳴らされる刻太鼓は

「残したい日本の音風景100選」に選ばれている

お湯かけ祈願の「玉の石」

「神代に、大国主命とともに伊予国にやって来た少彦名命が重病となり

大国主命が掌にのせて命を湯に浸すと、たちまち平癒し

少彦名命が喜びの舞を舞ったのが、この玉の石である(伊予風土記)」

この2神は温泉の守護神として近くの湯神社に祀られている

折角来たのに、お湯に浸かれないのは残念だけど

せめて玉の石にお湯をかけて健康祈願 「宜しくお願いします パンパン」

道後温泉から北に進み、椿館前を左折し鷺谷墓地に着く

日章旗が掲げられた陸軍大将・秋山好古の墓には、ひっそりと桜の古木が寄り添っていた

日露戦争で世界最強のコサック騎兵を破った兄の秋山好古

東郷平八郎の名参謀としてバルチック艦隊を抑えた弟の秋山真之

「近代俳句の父」として称され多くの俳句を残した子規

ほんの100年ほど前、松山出身の若者達が、自ら思索し、行動する事で

東洋の小さな島国に過ぎない日本を欧米列強に負けない国にしようと「坂の上の雲」を目指した

彼らの人間的魅力を描いた、司馬遼太郎著・歴史長編小説「坂の上の雲」の資料などを

展示した瀟洒な建物「坂の上の雲ミュージアム」が、平成19年4月28日オープン

また、主人公たちの少年期・青年期・壮年期の3部に分けて

平成21年〜23年にわたり、NHKスペシャルドラマとして放映されるそうだ

因みに、キャストは秋山好古(阿部寛)、秋山真之(本木雅弘)、正岡子規(香川照之)

来年から、松山が熱くなりそう

松山城の鬼門・艮(うしとら)の方角に据えられた鎮護の寺・常信寺

松山藩初代藩主・松平定行公、弟の定政公の霊廟がある

門前に植えられた桜並木が、とても立派

春に、桜のトンネルの下を歩きたいわ〜

松平定行は、徳川家康の異父弟・定勝の子で、藩政の基礎を築き

晩年は勝山と号して悠々自適の生活を送った

徳川家康と菅原道真を合祀している松山神社

社殿は元冶2年(1865)、十三代藩主・勝成公により建立

菅原道真公が筑紫に左遷されて行く途中、立ち寄られたそうだ

ゆかりの「飛梅」が植えられている

東風の船 高浜に着き 五十春  (黙禅)

境内には、高浜虚子や酒井黙禅の句碑が建つ

迷路の様な新興住宅地を抜けて、段々と近付いて来る御幸寺山を目指す

正面の通りから、見てみると

御幸山に守られているかのように護国神社が建つ

護国神社

幕末から大東亜戦争の多くの鎮魂碑が建つ奥には

額田王の「熟田津の歌碑」があり、周囲には万葉集に詠まれた植物が植えられているそうだ

漂泊の俳人・種田山頭火の終焉の地・一草庵

庭に、鉄鉢の中へも霰   春風の鉢の子一つ の句碑が建つ

高橋一洵氏や大山澄太氏の世話で、御幸寺境内の納屋を庵とした

おちついて 死ねそうな 草枯るる

以前、大山澄太氏の講演会で、松山滞在中の様子を聞いたが

温泉と酒を楽しみながら句作活動をし、俳句に詠んだ通り

隣の部屋で皆が句会をしている最中に静かに息を引きとったっそうだ

代表作 分け入っても 分け入っても 青い山

一草庵の直ぐ上に建つ、御幸町最古の寺・御幸寺

なんでも、7世紀の中頃に舒明天皇が病気療養のため道後温泉に行幸された時

此処を仮の行在所とされたので、それに因んで三木寺から御幸寺と改められたとか

終わりかけた菩提樹の花を見ながら黄檗宗の寺、千秋寺を訪れる

貞享4年(1687)四代藩主定直公の時代に、中国から来た高僧・即非によって創建されたが

戦災で消失し、即非直筆の「海南法窟」の扁額のみが残る

秋の彼岸には、白萩と白曼珠沙華が咲き誇るそうだ

翌日、「山の辺の道を歩こう会」の方からメールを頂き

門前に咲いているジャカランダ(ブラジルの国花)の花を見ましたかと

写真を送って下さったが、残念ながら薄紫色の可愛い花を見過ごしてしまった

松山城防御の為、道後から移設して来た来迎寺

重信川に、その名前を残す普請奉行・足立重信や

物理学書「気海観瀾(きかいかんらん)」を著した青地林宗の墓がある

ロシア人墓地

日露戦争で捕虜となった6019人の将兵のうち

松山で没したワシリー・ボイスマン海軍大佐ら98人の将兵が

遠く故郷を離れた此の地に眠る

地元の勝山中学校やボランティアの方々によって

花が手向けられ、手厚く供養されている

98基の墓標はロシアの方を向いているんだろうか

帰りたかっただろうなぁ

丁度、市内の観光スポットを巡るマドンナバスがロシア人墓地側に停車

先程、一草庵辺りでも見かけたが、素敵なレトロバス

土、日、祝日に、6〜7回名所旧跡を巡回しているそうだ

乗りたいわ〜

運転手さんに 「気をつけて」 と、見送られて歩き出す

十六日桜(じゅうろくにちざくら)

子供に家督を譲った翁が、龍穏寺近くの渓谷に庵を構え、その庭に桜を植えて余生を送っていたが

或る年病に罹り、齢旦夕に迫った正月15日に息子を枕元に呼び、平素の孝養には感謝しつつ

多年愛でて来た庭の桜花を、この世の名残に一目でも見たいものだと申しました

翁の言葉を聞いた孝心息子が、何とかして父の最期の願を叶えてあげたいと思い

雪降る中を井戸端で水をかぶり一心に祈ると

朝日が昇る頃、不思議な事に桜樹一面に花が咲き誇った

子息は神仏に感謝しつつ、父を背負って満開の桜を見せると

臨終に近かった翁は、その日から元気になり10年の長命を保ったそうだ

翁は桜に感謝しつつ、今から後、正月16日には時季を違えず花を咲かせて下さいと祈ると

それからは、毎年のように16日に花を開く様になったので、

里人達は此の桜を「十六日桜」また「孝子桜」と呼ぶようになったと伝えらている

石鎚山・龍仙院 参道に「おこり地蔵」を祀っている

広島の原爆被害に遭い、首なし地蔵となっていたものを修復したら

そのお顔が怒っている様に見えたので、「おこりじぞう」と呼ばれているそうだ

春や昔 十五万石の 城下哉  (子規)

見晴らしのよい高台に建つ、社殿からの眺めは最高! 

晴れていれば、松山城、左奥に石鎚が見えるんだろうなぁ

爽やかな風が吹きぬけ汗が引いて行く

春には桜の名所だそうだ

城北の防備の為に松前から移転された長健寺

「秋は紅葉の長健寺」と言われる紅葉の名所

こじんまりとした池泉庭園が美しい

境内には、山頭火、高橋一洵の句碑が建つ

長健寺の隣にある弘願寺(ぐがんじ)

山門前に、坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」の句碑が建つ

街中に下りてくると、やっぱり蒸し暑い

門前のベンチに腰掛けて休みながら、水分補給

小泉八雲により、孝子桜として紹介された天徳寺の「十六日桜」

もともとの十六日桜は戦禍に遭い、現在各所に株分けされたものが残っているが

花の時期は昔より遅くなっているそうだ

伊予節の中でも、十六日の初桜として唄われて人々に親しまれ

また、文人墨客たちは短歌や俳句を数多く残している

初春の 初花さくら めづらしく みやこの梅の さかりにぞ見る  冷泉為村

又たくひ 世は梅さかり 此の桜   一茶

嘘のような 十六日桜 咲きにけり  子規

一枝に 一輪 十六日桜かな    碧梧桐

花に来て 寺の田楽 よばれけり  極堂

十六日 十六日桜 咲きにけり    為山

松山の八社八幡の七番社・還熊八幡神社(かえりぐまはちまんじんじゃ)

貞観年間(859〜877)、河野氏により石清水八幡を勧請して創建された

延元年間、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が武運長久を祈願したと伝えられる

姫原、姫池湖畔に建つ輕之神社

允恭天皇の皇太子・軽太子(かるのみこ)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)兄弟を祀る

輕之神社から5分ばかり歩いた山裾に、悲恋の兄弟を祀る比翼塚があり

側には、一対の桜と歌碑が建っている

天飛ぶ 鳥も使ひそ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね 軽太子

君が往き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ  軽大郎女

 

「伊予山の辺のみち」はさらに、北へと続く

みかんの花咲く里山を越え、眼前に広がる斎灘を一望し古代熟田津のロマンに浸り

中世伊予の豪族河野氏の史跡の宝庫「風早の郷・風和里」を目指す

何時か、機会があれば歩いてみたい

 

いで湯とロマン溢れる町・松山の北山山麓を巡る「伊予山の辺のみち」は

今、松山市が進めているまちづくり「フィールドミュージアム構想」そのもの

名所旧跡を訪ねながら、数多く残る歴史や文化に親しめる道でした

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