2008年11月22日  金 見 山

平家伝説の里・切山を巡り、金見山へ

四国中央市上柏町から見る金見山と中腹にある切山地区

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 

駐車地点〜慰霊碑〜生き木地蔵〜土釜神社〜上八幡宮〜下八幡宮〜安徳窪〜下谷越え

〜金見山〜唐谷峠〜駐車地点                           (3時間50分)

 

参考文献   宇摩史談会報、及び切山平家遺跡保存会発行パンフレット

 

四国中央市市街地から東に見える饅頭を重ねた様な金見山(かなみやま)

容姿、高さ共、格別登頂意欲をそそられる山では無いが

中腹の切山地区には興味深い平家伝説が残っている 

一の谷の戦いに敗れ屋島に陣をひいた平氏は、少しでも安全な祖谷へと安徳帝を遷していたが

義経率いる大軍が阿波へ上陸したとの風聞により、その祖谷も離れ切山地区に移り住んだ

今日は、平家伝説の里・切山を巡り、金見山を歩いてみよう

県道・大野原川之江線の切山入口にある小公園には

遺跡略図板や初代川之江市長となった切山出身の真鍋安次氏の像が建つ

切山平家遺跡保存会が説明板を設置するなど遺跡整備に努めている

遠い遠い昔、800年以上も前の元暦元年(1184)6月

        田邊太郎・平清国(清盛の外孫)

        真鍋次郎・平清房(清盛の八男)

参鍋三郎・平清行

  間部藤九郎・平清重

                伊藤清左衛門国安(紀州熊野神社修験者)

     五士とその一族が、幼い安徳帝を守護し

祖谷から山道を歩き続けて辿り着いたのがこの地、切山の里

少し下って、真鍋家住宅背後に「要害の森」が鬱蒼と茂る

この時期、一際抜きん出た雄々しいヤマザクラの桜もみじが柔らかい

平成2年、川之江市保存樹木に指定されたのを機に

16代当主・真鍋潤氏が、真鍋家の屋号・表(おも)に因み、表桜(おもざくら)と命名

ふる里の 裏山に座す 表桜 今年の花を 人寄りて観る (潤)

国の重要文化財に指定されている「真鍋家住宅

要害の森に守られて、450年前に建てられた三間取り型の原形をそのまま残している

中の間の囲炉裏には薪が焚かれ、煙に燻された柱や天井は黒光りしている

火を焚く事によって室内の余分な湿気を除き、今後何百年も保存出来るそうだ

地域の学習会に使われたり、歴史材料として見学が絶えないこの家では

毎月1日に「平成切山昌平校塾」が開かれ、郷土の先哲尾藤二洲の教えや漢詩を学ぶ人々が囲炉裏を囲む

県道・大野原川之江線から、30戸程の家が散在する切山地区を見下ろす

昔は、「切明山」「霧山」「桐山」等とも呼ばれていたそうだ

11時50分 唐谷峠手前の県道沿いに駐車して、いよいよタイムスリップ

 遠く祖谷の山々、眼下に切山集落を見ながら下って行くと

山田井分教場と書かれた石柱が立つ広場に、平家の慰霊碑(左奥)が祀られている

昭和54年に保存会で復元された「生き木地蔵尊

分教場跡から東へ1km程歩いた所に、右下へ170mと書かれた案内板が立つ

鬱蒼とした谷の斜面に、生きたカゴノキに彫られたお地蔵様が祀られていた

側に朽ち果てた古い生き木地蔵尊の社があるが、中谷部落の間部家に

享保16年(1731)に開眼供養した事等が記された棟札が残っているそうだ

生き木地蔵から引き返し、暫く進むと院の墓の標識

山手の小路を駆け上がると、西の海に向って建つ「院の墓」の碑

壇ノ浦での平家敗北を知り、再挙の夢が消え去った人々は西の空を伏し拝んで嘆き悲しみ

安徳帝の御衣と御念持仏を此処に埋め、仮の御陵としたとされる

碑前面の木々は刈り払われ、展望が開ける

四国中央市のシンボル、巨大エントツ群の煙がたなびく

土釜神社分岐で、市道下谷線から逸れ林道金見山線に入る

道沿いに、「土釜宮道」と刻まれた古い石碑が建つ

分岐から、5分ほどで土釜神社

真鍋次郎平清房、田邊太郎平清国の子孫が祀られている

土釜神社手前の坂道を下って行くと、帝の安泰を祈った土釜薬師が祀られている

ここは、五士が最初に辿り着いた所とされ、警備の要となっていた

土釜薬師・土釜神社から引き返し、宮の谷沿いを下谷へと薄暗い林道を下って行く

下谷八幡宮が近付いてくると辺りに神聖な空気が漂ってくる

安徳帝の安泰と、平家の武運長久を祈って祀られた下谷八幡宮、上の宮

推古6年(598)宇佐八幡宮から分霊された、十四代仲哀天皇、十五代神功皇后が祀られている

八幡宮の側に、安徳帝を祀る祠・安徳宮が鎮座する

上の宮から10分程下ると、小広くなった所の右側に下の宮の鳥居が見えた

鳥居を潜り参道を上がって行くと、石段脇に宮石灯籠刀石が並んでいる

趣のある石灯籠には、菊の紋があり「奉燈 正八幡宮」と書かれていた

この刀石は、安徳帝が神器の一つである宝剣を置いたとされる自然石

苔むした石段の奥に鎮座する下谷八幡宮、下の宮

御祭神・十六代応神天皇は、冶暦元年(1065)川之江大岡八幡宮に奉遷された

下谷八幡宮、下の宮の鳥居側に祀られた熊野権現社

祖谷から道なき道を歩いて来て、下谷の手前の日替谷に差しかかった時

暗雲漂い雷雨の気配となったが、伊藤清左衛門国久が背負っていた熊野権現に祈ると

一変して日が差し始め、無事に切山へ辿り着けたと伝えられる

熊野権現様にお参りしてから、下谷八幡宮上の宮まで引き返えす

下谷八幡宮、上の宮側に 安徳の窪 500m  安徳の渕 100m  安徳の滝 1km 

安徳帝下向道、詫間町須田浦へ30kmと書かれた石碑が建つ

先ずは、川沿いに付けられた道を辿り、安徳の窪へ

此処から、やっと登山道の雰囲気

歩き始めると直ぐに橋が有るが、渡らずに直進

この辺りが安徳の渕かな

100m程歩きコンクリートの急坂を登って行くと、安徳の窪に着く

木々が刈払われた平地に、安徳天皇行在所の碑が建つ

周囲の尾根が迫って来る急峻な奥地に辿り着き

雨露を凌ぐ小屋を造り、御座所を設けたそうである

水は豊富にあるが、食料の無い山中での生活

暫くは、数km離れた川滝町領家で食べ物を買い求める事が出来たであろうが

木を伐り草を刈って畑を作り蕎麦、芋、豆等を作ったのだろう

1時40分 引き返し、橋を渡り安徳帝下向道を行く

100m程歩き小さな谷の合流点付近を強引に渡り右へ

安徳帝は半年間切山で過ごした後、平知盛、平教経らの迎えをうけ

下谷越えから田野々へ下り、讃岐詫間の須田ノ浦から船で長門国赤間へ向ったそうだ

 谷から離れ、シダの生い茂る急坂をジグザグと登って行くと

あれれ、林道に突き当たった

木に括り付けられた竹の標識に、薬師尾道

薬師尾跡 1km  下谷越え 1,5km  田野々法泉寺 3kmと、書かれていた

登山道に、「入山権、松茸採取権を有しない者の入山を禁じる 四国中央市」の貼紙

「市民の皆さん、ご自由にどうぞ」とでも書けばいいのに、肝の小さい事!

熊野修験者・伊藤清左衛門国久が薬師如来像を刻み

金見山の薬師尾に安置し、帝一行の安泰を祈願したと言われている

薬師跡から10分程歩くと、下谷越えに着く

一行がこの道を歩いたのは1185年正月 寒くて厳しい峠越えだったのだろう

右へ行けば、シロバナウンゼンツツジが自生するという高丸山(589m) 

左へ稜線を辿れば、金見山、木峰を越えて唐谷峠

安徳帝下向道は、下谷越えから田野々へ下り讃岐詫間の須田の浦へ

僅か6歳の幼帝を守護し続け、港で見送った五士の心根を思いやると、胸が熱くなる

下向道と分かれて、しっかりした尾根道をルンルンで歩いていたら

あらら、茅の茂った急坂 こんなに茂ったら防火帯の役目するのかな?

素朴な疑問です

茅の中に可愛いリンドウ〜♪

急坂の途中から振り返れば、矢筈山、烏帽子等、祖谷の山々も初冠雪

2時30分  一等三角点のある金見山頂上(596m)

金見山って金が見える山よね  

そういえば、川之江には金生(きんせい)、金田(かなだ)等、金の付く地名が多いんだけど

ひょっとして、昔々 金生川源流部安徳谷のどこかに埋めた平家の埋蔵金が大雨で流れ出し

頂上から見下ろしたら、辺り一面金だらけだったりして・・・・ まさかねぇ

マイナーな山なのに三角点周辺は山頂標識だらけ 埋蔵金ロマンどころじゃないわ

転げ落ちそうな急坂を下り、金見山を振り返る

またまた急坂、茅を掻き分け掻き分け進む

茅の藪から飛び出すと、木峰頂上(593m)

切山越え辺りから、少し展望が開けて来る

アップダウンを繰り返し、天狗森、唐谷山を過ぎると大谷山が見え出した

3時30分 県境の唐谷峠(田野々越え)に下り立つ 

登山口に阿讃縦走コース(金見山・雲辺寺)の標識、県道を隔てて大谷山遊歩道が続く

僅か4時間足らずだったけど、毎日眺める平凡な山の中腹に抱かれた平家伝説のロマンに触れ

時間の割には、中身の濃い充実した山行でした

法皇山系 赤石山系を見ながら車道を10分程歩いて駐車地点

もみじ寺として名高い、田野々法泉寺の紅葉を愛で、帰途、再び切山を通る

山の日暮れは早く、少し肌寒くなってきていた

 

夢路辿りても都に帰りたかっただろうに、山深いこの地に住みついて800年余

切山の小集落には、五士が地神宮として祀られた神社があり

春秋のお社日には、其々の先祖を供養する祭りが行なわれている

昭和52年、子孫の方々が中心になり、切山平家遺跡保存会を結成

美しい自然景観を活かした、夢とロマンのふるさとづくりが続けられている

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