2008年12月20日 讃岐街道・中山越え

ロマン漂う「あけぼの橋」「源太桜」を尋ねる

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 
四里石〜檜皮峠〜源太桜〜曙橋跡〜七里石〜笹ヶ峠〜八里石〜湯谷口バス停

                                       (6時間35分)

 

愛媛の名付け親である半井梧菴(なからいごあん)が、幕末期に編纂した地誌「愛媛面影」

「面影」とは概略と言う意味だそうで、自ら各地を歩いて記した伊予国風土記を後世に伝えている

その中に、絶壁を削り造られた山道に咲く桜や渓谷に架かる屋根付き橋「あけぼの橋」が描かれ

「多くの文人墨客が訪れた景勝地で、京都東福寺の通天橋の景観に似ている」と評している

讃岐街道の難所・中山越えを歩いた時、やすらぎの場所として心に残ったのだろう

 

道後と道前を結ぶ讃岐街道・中山越えは沢山の物資が行き交い

また商人や金毘羅参詣、石鎚参拝の人で賑わった

最も山深い部分は「桜三里」と呼ばれ、特に愛媛県人になじみが深く、歴史ロマンが溢れている

今日はこの讃岐街道・中山越えを四里石から八里石まで歩いてみよう

 

旧丹原町・湯谷口バス停に車を停め、瀬戸内バスに乗り川内営業所下車

其処から、松山道川内IC近くの斉院之木交差点まで歩くといよいよ今日の出発点「四里石」

9時15分 交差点北西角の植え込みに建つ「松山札辻より四里」の里程石より歩き始める

「松山札之辻」とは、松山藩の高札場(松山城の北西隅)があった所で

ここから、高浜街道・今治街道・大洲街道・土佐街道・金毘羅街道の五街道の里程が始まっている

交差点の歩道橋から、石鎚をズーム

県道(旧R11)と分かれ、左の道を進む

川上小学校を過ぎ、宝泉川を渡り、綺麗な流れの水路に沿って歩く

水の流れる町って、いいなぁ〜 夏にホタルが舞ったら最高!

雰囲気のある家並みが続く道を、緩やかに上って行く

当時、此の辺りに馬継ぎ所の川上駅があったので

金毘羅参詣や石鎚参拝の人々、諸国の商人達が集まり賑わっていたそうだ

「左讃州金毘羅道 従大門廿七里」の道標に導かれて左へ

暫く進むと、県指定史跡の川上神社がある

境内に7世紀中頃の横穴式古墳があるそうだ

塩ヶ森、東温アルプスを写す吹上池

一番奥に、テーブルマウンテン・皿ガ嶺の稜線が見える

松山ゴルフ倶楽部コース下のトンネルを抜け クラブハウスへの道を上がって行くと

またまた長そうなトンネルが有り、中は真っ暗

入口にあるスイッチをいれると、蛍光灯が点灯しほっとする

出口では忘れず消灯しました

10時10分 トンネルを抜けて下りて来た所の三軒屋集会所で小休止

集会所の下には、嘉永4年(1851)建立の常夜燈

県道327号線湯谷口川内線に出て永寿橋を渡り、桧皮(ひわだ)集落に向って歩く

集落を抜けた所にある右こんぴらみちの道標に従い右へ

100m程でまた右へ、ここから松山道を見ながら桧皮峠越えの坂道となる

登り切った所が桧皮峠かな、何の標識も無いので良く分からない

道路脇に沢山の土管が積まれた場所で休んでいると

地響きをたててダンプカーが走って来た、戦車かと見紛う大きさにビックリ!

ひっきりなしに大型ダンプの出入りがあると思ったら、産業廃棄物処分場があった

そこから正面に石鎚、二ノ森を見ながら旧川内町札場に下って行く

 

11時30分 札場集落へ下って来ると、道沿いに道標が立ち

「金毘羅大門より二十五里、土州久萬山道、右名越金毘羅へ一里」と書かれている

土谷集会所に「あけぼの橋」復元模型が置かれていた

側には馬繋ぎ石もあり、源太桜二世の記念植樹もされている

土谷橋の袂に「松山札の辻より六里」の里程石が建ち

側に、ふるさと桜三里会の旧金毘羅街道(旧桜三里)案内板がある

「源太桜」の説明を読み、川沿いに少し行くと復元された「あけぼの橋」が架かる

分岐に、「源太桜 旧金毘羅街道 約1300m」の標識が建つ

山側を見ると、「左 こんぴらみち」と書かれた自然石の道標があり、やっと山道になる

なんかうっと暗い道じゃねぇ、と話しながら坂道を上がって行くと

肩から猟銃を下げたハンターに会う

猪は歩く道とは反対の方に追い込まれているそうだけど、足早に急坂を駆け上がる

日当たりの好いところは勢いよく茅が茂っているが、道が判らない程でもない

桜の時期には綺麗に刈り払われているのだろう

道沿いに、今にも倒れそうな「峠茶屋跡」の標柱が立つ

「伊予路の歴史と伝説(合田正良編著)」より

昔、殿様が領内を巡られて中山越えを通られた時、人家が一軒も無い山道の茶屋で休みながら

「何か旅人を慰めるよい方法は無いものだろうかなあ」と道中を振り返って見ていると

幾つかやり過ごした山々にぼうっと咲いた山桜が目に留りました

「そうだ、この長い道中に桜を植えたら、春は花見、夏は木陰、秋は紅葉とそれぞれ趣をそえる事だろう」

城に帰り、早速中山越えに桜を植えるように代官矢野五郎左衛門に命じ

街道の両側へ8400本の桜を植えわたしました

5年も経つと、立派に花を咲かせ街道を通る旅人を楽しませました

それで、誰言うとなく「桜三里」と呼ばれだし、この辺りを「桜樹村」と名付けました

それから長い年月が経つ内に、古木となった桜が枯れ始めたので

何代か後の殿様が、桜三里の桜を補植するよう林源太兵衛に命じたが

源太兵衛は大変せっかちで、村人に無理な仕事をさせたため、皆が之を恨み

「桜三里は源太のしおき、花は咲くとも実はなるな」と唄われたという事です

ひょっとして、此処が殿様が休んだという茶屋跡なのかしら?

暫く進むと「清水寺跡」、こんな山中に寺が在ったのかしら?

此処で道は二つに分かれる

真っ直ぐ進むと藪いていて道が分かり難かったので

引き返して、綺麗に刈り払われた右の道を下って行く

どうも道を間違えたみたい、ドンドン下っていって植林帯に入り込んでしまった

植林帯の斜面を登り返し、古道に出た  ヤレヤレ

古道を左へ行くと、先ほどの「清水寺跡」へ繋がるのだろう

やっぱり、真っ直ぐ進めば良かったわ

後は、迷う事なくしっかりした道を下って行く

苔むして趣のある木橋だけど、滑らないように気をつけて渡る

12時32分 「源太桜その一」、サクラモミジも散ってしまい、厳しい冬に備えていた

「ふるさと桜三里会」の説明板に拠れば

貞享4年(1687)、代官矢野五郎衛門源太の指揮により

街道沿いに8240本の桜が植えられた

「桜三里は源太の仕置き、花は咲くとも実はなるな」と

その時酷使された松山藩の囚人たちの怨嗟の詩が残るが

以来、桜の季節は美しく「桜三里」と呼ばれるようになった

先程の「伊予路の歴史と伝説」と内容が少し異なるが

渓谷沿いの険しい道だけに、大変な作業だったのだろう

今、エドヒガンザクラの古木は「源太桜その一」と「源太桜その二」の二本が残る

「源太桜その二」の前に、何故か対岸の「為馬菩提地蔵」の案内板が立つ

昔、数珠繋ぎにされていた馬が次ぎ次ぎと川に流され死んでしまい

その後ここを通ると馬の鈴音が聞こえたとか、流された馬の供養に建てられたそうだ

12時40分 源太桜から下って来ると、「あけぼの橋跡」の看板がある

此の辺りから対岸に屋根付き橋が架かっていたのだろうか?

大正初年頃まで使用されていたそうだが、今は姿を留めていない

ダム湖に沿って下流に向かい素彫りのトンネルを抜けると堰堤に出る

中山川逆調整堰堤

面河ダムからの水が調整池に引かれている

「逆調整」とは水力発電所からの放流量をいったん調整池に貯めて

放流量を調節し、下流河川の水位変動を安定化させるそうだ

昔は、もっと素晴らし渓谷美が見られたのだろう

R11に出て50m位進んだ所から、R11東側の山道に取り付く

急斜面に植えられたハナシバの間を縫って強引に登って行くと

段々緩斜面になり、廃屋や畑が現れ舗装された町道に出る

町道を下って行くと、風格のある神社が現れた

13時23分 五社大明神社へお参り

素盞嗚尊(すさのおのみこと)、稚日女命((わかひるめのみこと)が祀られている

稚日女命というのは若く瑞々しい日の女神という意味で天照大神の妹とされ

高天原で布を織っている所へ素盞嗚尊が馬を投げ込み、それに驚いて死んだと日本書紀に書かれている

五社大明神社の直ぐ上に、旧千原小学校が建つ

今は、千原児童遊園で災害時の一時避難場所に指定されていた

対岸には、荒々しい千羽ガ嶽が聳える

下方の桜三里食堂の所から、国道と分かれて千原集落へ入って来る道が見える

一旦下まで下り、右側の細いコンクリート坂を登って行く

13時42分 ハナシバ畑を過ぎ、左へ下って行くと

踏み跡がが無くなり、、道が段々怪しくなって来た

ドンドン下ると完全な竹薮になる、こんな所は歩けん!

古道歩きは、一旦中止して国道へ

でも、フェンスに閉ざされて出口が無い

やっと檻から出られたと、ホッとしたのも束の間

ビュンビュン飛ばしてくる大型ダンプが怖い!

2時10分 「松山札辻より七里」の里程石が建つ、七里茶屋に着く

緊張して疲れたし、そろそろお腹も空いて来た事だし、一寸休憩

茶屋から、15分ぐらい国道を歩き、左へ分かれる細い道を下って行くと、民家が2軒建つ

今は住む人も居ないのだろう

前方に浮かぶ巨大な松山道を見上げながら、中山川に架かる上落合橋を渡る

15時11分 唐子川に沿って北へ進み、県道327号湯谷口・川内線に出ると

喉の病気を治してくれるという「おんびきさん」が祀られていた

時々扁桃腺が痛くなるので、よ〜くお参りした

笹ヶ峠から少し下って来ると、丹原町川西の長閑な田園風景が広がる

遠く、沓掛山から黒森山がクッキリ見える

ひょっとして、笹ヶ峰が見えるかなと期待したんだけど・・・

3時35分 「松山札辻より八里」の里程石

かろうじて「里」は読めるが、全体に風化してしまい文字は読めない

「つきあげだんそう橋」で、対岸の湯谷口に渡る

この辺りの地形は、衝上断層(しょうじょう)といわれ

数千万年前の地殻変動によって出来た中央構造線上の逆断層が見られる

3時50分 R11に出て、湯谷口バス停にゴール〜

さぁ、これから松山で忘年会、歩いて帰っていたら間に合わないねぇ

じゃ、桜三里をぶっ飛ばそうか(笑)

 

愛媛県の中予と東予を結ぶ桜三里は3つ有る

今日歩いた、讃岐街道中山越えの「旧桜三里」

四国の幹線・国道11号線の「桜三里」

そして、平成の道・松山自動車道路「新桜三里」では、車が空を飛ぶ

松山自動車道を走れば僅か10分弱ですが、道標に導かれ古道を歩いて6時間35分

車道歩きが多かったけれど、山道はいい雰囲気が残っていた

今度は桜が満開の頃に訪ねてみよう、また楽しみが増えました〜

 

HP「四国の古道・里山を歩く」讃岐街道を歩くを参考に歩かせて頂きました

たーにんさん、ありがとうございました

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