2009年01月17日 眉 山

徳島里山歩かなソンソン 城山〜眉山〜弁天山

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平18総使、第582号)」

 
徳島城鷲の門〜瑞巌寺〜展望休憩所〜眉山最高点〜地蔵越〜あづり越〜弁天山〜JR地蔵橋駅

(6時間30分)

 

眉山頂上はパコダ塔の所だと思っていたけど、どうも西の方に最高点があるらしい

今日は、城山から水の郷徳島の市街地を抜け眉山を縦走し、地蔵橋駅まで歩いてみよう

 

徳島駅近くの駐車場に車を停め、城跡の徳島中央公園に向っていると

高校生がぞろぞろと列を成して歩いて行く

今日はセンター試験初日だわ、みんな頑張って!

 8時35分 開門〜  徳島25万石の風格が漂う 「鷲の門」

徳島城の巽に位置する表口見付の門 (平成元年に復元)

阿波の守を任じられた蜂須賀公の入封に際して

秀吉が小早川隆景、長曾我部元親、比叡山の僧侶たちに築城の手伝いを命じ

何と、600日であらかた出来上がったという平山城だが

当時の姿を残すのは、石垣や表御殿の庭園のみとなっている

阿波の殿様 蜂須賀公が 今に残せし 阿波おどり の碑が建つ

天正13年(1585)に築城された徳島城(別名 渭津城)

側に、徳島と言う名前をつけたとされる初代蜂須賀家政公の銅像が建つ

城普請完成の日を記念して、新しい領主のために領民達が踊ったとされる「風流(フリュウ)」

それが「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ ソン ソン」と、今に伝わる阿波おどり

周囲を城山原生林で囲まれた天守跡(61,7m)

天守跡と書かれているが、この場所に天守閣は無く

本丸より一段下の東二の丸に、三層の天守閣が設けられていたそうだ

街の喧騒から離れたこの場所では、鳥が賑やかに囀っている

本丸より眉山を展望

蜂須賀公の時代よりずーっと以前、室町時代初期、幕府管領細川氏の頃は

この猪山に建つ小城を渭山城(いざんじょう)と、また側の港は猪津と呼んでいたらしい

中国では唐の時代、渭水の流れの辺りに渭城と呼ばれていた町があり

シルクロードへ旅立つ人を、其処の港から見送ったという

当時、阿波から上方へ行くには猪津から舟に乗ったそうだが

この辺り、長安郊外の渭城に似ていたのだろうか?

両国橋袂

ハアラ、エライヤッチャ、エライヤッチャ、ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ

阿波の殿様 蜂須賀さまが 今に残せし 阿波踊り

笹山通れば 笹ばかり 猪 豆喰て ホウイ ホイ ホイ

笛や太鼓の よしこのばやし 踊りつきせぬ 阿波の夜

踊る阿呆に見る阿呆  同じ阿呆なら踊らにゃ損々

徳島は国土交通省の「水の郷百選」にも選ばれた水の都

対岸の新町川水際公園を見ながら、木のぬくもりが優しい「しんまちボードウォーク」を歩き

ガス灯が立ち並ぶろくえもん通りに入って行く

9時40分〜9時55分 鳳翔山 瑞巌寺

慶長8年(1603)に、開祖一鶚禅師により建立

阿波に茶の湯が伝えられた時、此処で初めて茶会が催されたそうだ

原生林が残る天狗谷、眉山山麓を巧みに利用した江戸初期の庭園を拝観する

山腹より流れ込む湧水、苔むした狭石は自然そのもので風情がある

小鳥が長閑に遊び、近寄っても逃げようとしない

阿波おどり会館横の天神社にお参りし 社殿右にある眉山登山道に入って行く

10分弱で車道に出て 再び登山道に入る

車道側に自然歩道登山口 頂上迄680m 20分の標石が建つ

ここから100mおきに立てられた標石を見ながら木の根が這う急坂を登って行く

阿波おどり会館の山麓駅と眉山山頂駅を約6分で結ぶロープウエイ

山腹から市街を見下ろすと、何処からとも無くお囃子が聞こえてきそうな気配だ

ハアラ、エライヤッチャ、エライヤッチャ、ヨイ、ヨイ、ヨイ、ヨイ

阿波の眉山 桜の名所 白いうなじに 花が散る

滝は白糸 青葉の中に 昼も来て鳴く ほととぎす

赤い夕日に紅葉が映えて 龍宮みたよな 三重の塔

ふりのよい子が あんこをこねて 口でお入り 餅を焼く

でも、今は一年で一番寒い「寒の入り」

全県挙げて繰り広げられる阿波おどりは、暑い8月。まだまだ先の話だわ

勾配が緩やかになって来ると鳥居が見え出した

元は剱山遥拝所だった所に、別格剱山本宮が建つ

富士ノ池の本宮を始め頂上摂社等より御分霊を勧請し祀っているそうだ

立派な鳥居に付けられた笹の輪飾りを潜ってお参り、パンパン

10時45分〜11時20分 市街地の展望を楽しみながら、展望休憩所で昼ごはん

吉野川河口の広いデルタ地帯に築城された城は、北には雄大な四国三郎・吉野川

手前には新町川が流れ、東には阿波水軍が活躍した海が広がり

自然の要害を巧く利用しているのがよく分かる

眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山  

   かけて漕ぐ舟  とまりしらずも (船王)

展望広場には眉山を詠った万葉歌碑、第2次大戦中ビルマで戦死した兵士の霊を祀るパコダ塔

ポルトガルの文豪・モラエスの記念館が建つ

徳島のシンボル眉山は、東西6,5km、南北3km、一等三角点276,7m

佐古山、富田山、八万山、名東山と呼ばれていた山地一帯を藩政末期頃から眉山と呼ぶようになったそうだ

西端にある最高点(290m)を目指して遊歩道を歩いて行く

徳島市制100周年を記念して、姉妹都市サギノー市(アメリカミシガン州)から贈られた

洋風あずまや「ガゼボ」、円形ドームの頂には風見鶏が鳴門方面を見下ろす

かんぽの宿からドライブウエイを15分下って行くと縦走路登山口に着く

途中、蜂須賀小六正勝の墓所がある

登山口から10分程歩けば三角点(282,9m)、その側に祠が祀られていた

道なりに直進すれば黒岩神社、地蔵越を目指し右折する

ちょっと間違いそうなポイントだ

12時05分 眉山最高点(290m)

南東方面の展望が開け、日の峰、小松島辺りがよく見える

次の分岐を上長谷方面へ、三角点(234、1m)を越え、鉄塔を潜れば地蔵越は近い

2ヶ所ロープの渡された急坂を下って行く

正面が開けてくると 12時40分地蔵越着

お地蔵さんの側のベンチで一休み、ここ地蔵越は井戸寺と恩山寺を結ぶ遍路道 

遍路道を下るとすぐに車道にあたり、カーブの隅にある道しるべに従い車道をショートカット

地蔵越から下りて来て、園瀬川を渡ろうと思ったら、あらら工事中

通行止めになる時も有ると書かれていたけれど、今日はどうも大丈夫そう

潜水橋って書かれている寺山橋を渡り、対岸へ 「あの辺りがあづり越かな?」

日差しは春の陽気、のんびり畦に腰掛けて小休止

振り返れば、遠くなった眉山が横たわる

さぁ、あづり越を目指そう

右奥に、白くなった大川原高原が見える

国道から左の道へ入って行くと、朝宮神社 昭和大典記念と書かれた灯籠が建つ

地図で確認しながら歩いていると、農作業している方が「何処へ行くん?」

あづり越だと答えると、やっぱりというような顔をして親切に道を教えてくれた

遍路道の道しるべに導かれ、山道に入って行く

城西高校の生徒さんの道しるべが可愛い!

2時 綺麗に整備清掃されている「あづり越」

南北に走る文化の森、植物園縦走路を横切り、北山町へと下って行く

みかん畑の向こうに可愛い弁天山が見える

(見えますか?中央ちょっと右よりの小さな点です)

奥は小松島の市街地 その左には日の峰

 

モラエス翁の仏壇を祀る寺と説明のある・東海寺地蔵院

参道を下っていった所に「左あずりごえ」と刻まれた標石が建つ

古代の南海道?の標識

地図ではあり越になっているけど、あり越(峠)の方がしっくりくる

最近は聞かなくなったけど、昔の人はよく使っていたような気がする

辞典で調べると、「あずる」とは「焦る」が訛ったらしく

すべって空回りするという意味で、中四国地方の方言だそうだ

2時30分  弁天山(6.1m)

さすが日本一低い山、周りの電柱よりも低い!

麓から歩いて僅か20歩の山頂には

厳島神社より勧請された海の守神、市杵島姫命(イツクシマヒメノミコト)が祀られている

元暦2年(1185)、義経が屋島に向けて駆け抜けた頃、この辺り一帯は海であり

弁天山は海に浮かぶ小島であったが、室町時代以降、海水が引き小山となったそうだ

左奥の窪んだ所が、先程越えてきたあづり越

そうそう、以前義経ドリームロードを歩いた時、食べ損なった評判のラーメン食べて帰ろう

3時05分 JR地蔵橋駅着

 

徳島駅まで帰り、ザックを背負ったまま駅前のデパートへ

あらら全館バーゲンセール中、買わなきゃソンソン

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