2009年11月15日 ”土佐北街道(笹ヶ峰越え)”

石畳の残る古道歩き、下り付から腹包丁を喘ぎ笹ヶ峰へ

平成8年11月、「歴史の道百選」に選定された土佐北街道

古代官道調査保存協議会(川之江市、大豊町、新宮村教育委員会)により冊子が発行されている

表紙絵は「土佐藩行列絵巻」(高知県立歴史民族資料館蔵)

GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用) 
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。」(承認番号 平18総使、第582号)

 
下り付橋〜下り付〜笠取峠〜杖立地蔵〜笹ヶ峰〜県道〜笹ヶ峰隧道〜辺地床〜下り付橋

(5時間55分)

橡尾山〜カガマシ山の紅葉はどうかな?

と、新宮ICを下り県道川之江大豊線を走っていたら、登山口手前5km程の所で通行止め

辺地床(へちとこ)に全面通行止めと書かれた看板が有ったけど、あらら本当に通れんわ

「霧の森」で大福食べただけで帰る訳にもいかず

急遽、土佐北街道を歩く事にする

下り付(おりつき)から登るのは、5年前に、仙ちゃんと一緒に歩いて以来だわ

 

参考文献 妻鳥和教著 「予土の峠をゆく」、「予土の峠物語」

 

 下り付橋付近の路肩に駐車

8時40分 笹ヶ峰まで標高差750m、距離5km 「さぁ、行こか」

馬立川の川音を聞きながら、車道を5分程で下り付集落、民家の壁に高札が掛かっている

朽ちかけていて ちよっと読み難いが

「この道は南海道太政官道であり、江戸時代には参勤交代路、

江戸末期、明治大正時代には、紙の原料として、楮、三椏が運ばれ 

また、金毘羅講、仙龍寺奥之院講の講人なども行き交った古代からの交通路

人々は、笹ヶ峰を越え、腹包丁の急坂をやっと下り付き、此処で安堵した

土佐候は此処で列を作り、本陣に向ったという」 と書かれている 

集落を抜けるとすぐ「土佐北街道」の案内板と 「歴史の道百選」の石碑が立つ

此処から薄暗い植林の道に入って行く

参勤交代道としては、享保3年(1718年)より使われたそうだ

道は広くて歩き易いけれど、次第に傾斜が急になって来る

かなり上の方まで、道沿いに石垣が残っている

かつては沢山の家屋があり、街道の伊予側の玄関口として賑わったのだろう

所々に苔むした石畳が残る古道をひたすら上って行く

9時15分 腹包丁の案内板前で小休止

腹包丁と呼ばれるこの坂道は、九十九折れの急坂が続く難所

グランパの高校時代、地理のB先生が土佐北街道のスライドをよく見せてくれ

「栄光への脱出」のBGMが流れる中、

腹包丁について、腹に包丁を突きつけられる様なしんどい急坂・・・だったのか?

刀がつかえるので腹の方へまわして・・・と話したのか?、説明は良く覚えていないが

その時の「腹包丁」という言葉だけは、今でも鮮明に覚えているそうだ

展望の全く無い急坂を尚も頑張り、道が右にトラバース気味になりやっと尾根に出る

尾根を少し進み、石畳が出て来て、9時50分 「樫の休場」に着く 

 この辺りは自然林も残り、葉を落とし始めた木々の間から木漏れ日が明るい

樫の休場から予土国境までは、ほぼ尾根通しの緩やかな道

小さなアップダウンはあるが、徐々に高度を上げて行く  それにしても展望が無いなぁ

10時05分 笠取峠 ザックを下ろして一休み

尾根の東側は新瀬川村、西側は馬立村辺地床(うまたてむら へちとこ)

両村の境界になっている

古道の雰囲気がたっぷりの苔むした石畳の道

こんな道は、登山靴よりわらじの方が歩き易いのかな

滑りそうで、ちょっと歩き難い

静まり返る成地の杉林の中で、耳を澄ませば維新の鼓動が聞こえて来るようだ

大豊町教育委員会編の資料に拠れば、この土佐北街道は、

山内容堂は勿論、あの坂本龍馬や西郷隆盛、桐野利秋らが時代とともに駆けた道である

10時30分 水無峠

標高約850mの水の無い稜線、茶屋での一服は至福の味がした事だろう

説明板にも書かれているが、後ろに造林以前の天然杉(目通り3m弱)が苔むした姿で立っている

水無峠を過ぎた辺りから、笹が目立つようになり、葉を落としたブナも現れ出した

予土国境も近いかなと落ち葉の感触を楽しみながら歩いていたら

あらら、またまた難所だって!

10時40分 七曲り

もう少しで峠だと、足取りも軽く最後の難所を登っていたら

葉を落とした自然林の樹間から西の山々も見え出した

尾根が狭まった所が、街道中数少ない展望所

西には、左橡尾山(1222.1m)から右カガマシ山(1342.7m)の緩やかな稜線

今日歩く予定だったが、次の機会にしよう

稜線向こうにちょこっと頭を出している三角ピークは、三ツ足山(1452m)か?

もう一つの三ツ足山(1099.1m)はカガマシ山の北方稜線にある

北東には、ススキの名所塩塚峰(1043.4m)のお椀ピーク 

頂稜一帯を銀色に埋め尽くしていたススキも、すっかり初冬の色

10時55分 杖立地蔵

以前、「予土の峠をゆく」の著者・妻鳥先生が話して呉れた「杖立さん」の逸話を思い出す

ことのほか雪の多かった安政五年の正月、下り付集落に一人の旅人がやって来た

村人が、今日は峠越えは無理だと引きとめたが、どうしても約束があるというので

せめてがんじきをと渡して雪が降りしきる中を見送った

翌日、峠まで後三丁(約300m)の所で眠り込んだようにうずくまっている旅人を見つけ

荼毘に付し、供養にと大師像を祀り道中安全を祈った

それ以来、誰とも無く下り付から登って来た人はお大師さんの前で無事のお礼を述べ

杖を置くようになり、何時しか「杖立地蔵さん」と呼ばれるようになったそうだ

明治新政府になり廃仏毀釈が叫ばれた頃、お大師さんの首から上が無くなったが

昭和の大戦後、村の有志が故郷の遺跡を残そうと笹ヶ峰の境杭の復活、杖立さんの頭を復元

ところが、胴体は弘法大師で、頭が地蔵菩薩だったとか

つまり、旅人はお大師さんとお地蔵さんの二仏に見守られている

なんとも心強い話です

杖立さんから300m程で、予土の国境・北山(笹)越えの峠

「是ヨリ南高知県」「是ヨリ北愛媛県」と書かれた、大きな県境標の側には

安永三年弥生八月、九代藩主・山内豊雍(とよちか)候が江戸参勤の途次に詠んだ歌碑が立つ

朝風の音するミねの小笹ハら

         聲打ちませて鶯ぞなく

伊能忠敬の測量に拠ると、高知城から此処まで十五里

峠を吹き抜ける風にほっと一息つきながら、皆々汗を拭った事だろう

笹ヶ峰頂上は左の小高い所、 右は三傍示山(1157.8m)への縦走路

(上写真は伊予向きに撮っています)

11時 ブナに囲まれた笹ヶ峰頂上(1016m)

風が強くて、じっとしていたら寒い

南へ少し下り、陽だまりに腰をおろして大休止

残されている資料に拠れば、参勤交代の一行は立川を七つ時(午前4時)に出発して

三里の急坂を登りきり、「峰休場」と呼ばれたこの辺りでやっと休憩

供揃えは2000人余だとか、先発隊、本隊、後続隊と分かれていたにしても

そんなに多くの人が休めそうにも無いなぁと、思いながらお昼ごはん

来た道を引き返した方が早いだろうけど、同じ道をピストンと言うのも面白くないわと

所々石が敷き詰められた道を緩やかに高知側へ下って行く

11時45分 県道・川之江大豊線の車道に下り立つ

車道傍に、「標高800m、笹ヶ峰登山口、山頂まで30分」 立川御殿保存会や

「土佐北街道」 古代官道調査保存協議会の標識がたっている

下り立った所から、車道を少し南(高知)へ下ると、標識が立川(たじかわ)へと導いてくれる

この下は、藩政期土佐領最後の番所「木番所」があり

お留山の盗伐や抜け荷などの監視にあたっていたそうだ

幾重にも重なる土佐の山並み 遥か向こうに太平洋が・・・ ちょっと無理かな

土佐を出国する人、入国する人、それぞれ感慨深くこの景色を見たのだろう

さぁ、此処から長〜い車道歩き

紅葉を楽しみながら、昭和の街道を下って行こう

12時05分 笹ヶ峰隧道

遠くに出口が見えるのでヘッドランプが無くても大丈夫だろうと進んで行くと

中央付近は真っ暗!一歩先行くグランパの後姿を頼りに何とか通過

すれ違ったオートバイも、まさか歩いている人が居るなんてとビックリしただろうな

それにしても、北側の谷から吹き上がってくる風を全部集めて吹き抜け、寒かった〜

前方に、崩壊箇所が目立つ三ツ足山(1099.1m)

12時25分 橡尾山(1222,1m)登山口

路肩に乗用車とマイクロバスが停められていた

此処から1時間ほど下って行った所が通行止

途中、車が数台追い越していったけど、暫くしていたら引き返して来た

通行止の所で「新宮へ出る道は、他にありませんか」と香川ナンバーの車に尋ねられ

大豊ICから高速でと言うと「エッー!大豊から走って来たのに」と・・・

全面通行止めと書かれた看板は有ったけど、此処まで来て引き返すのは気の毒

1時40分 平成の街道、高知自動車道の笹ヶ峰トンネル

平成の峠越えは最短距離を串刺しだ

トンネルから飛び出し猛スピードで走り去る車を見下ろしながら小休止

高速道路の正面には、法皇山脈が立ちはだかっている

2時05分 ブナの活き水

「この水は、四国自然百選の一つ、橡尾山とカガマシ山との中間北側の

ブナ原生林(約100ヘクタール)を水源とする」と、説明板が立つ

何人か水を汲みに来ていた きっと美味しいんだろうな

そういえば、妻鳥先生の著書に次の様な一節がある

「愛媛新聞社発行の「旧街道」において、新宮には美人が多いということを述べていたが

全く同感である。 なぜか・・・。その一つとして婚姻の交流の広さをあげたい。」

と書かれているが、もう一つ、この「ブナの活き水」を加えたらどうだろうか?

雨が続いたので水量が多い馬立川の瀬音を聞きながら、辺地床を下って行く

2時35分 下り付橋着 3時間弱の長い車道歩きだった

高速道路がクロスする四国中央市は、今も昔も四国の交通の要衝

土佐と伊予を最短距離で結ぶ土佐北街道は、昭和中頃まで沢山の人が行き交った

土佐山内候の参勤交代行列、幕末の志士、金比羅参りの信者たち、

三椏、楮、塩、茶などを運ぶ商人、木地師、・・・はては飛脚犬まで

一本の道に歴史がいっぱい、ロマンがいっぱい詰まっている

今は登山者くらいしか歩く人がいなくなった「土佐北街道笹ヶ峰越え」 

石畳が残るこの予土の峠道を

落ち葉を踏みしめ、先人たちの跫音を聞きながら歩いてみませんか?

ひょっとしたら龍馬の息遣いが聞こえてくるかもしれません

偶然にも、今日11月15日は龍馬の誕生日であり、命日でした

歩いた道  ホーム