2010年09月12日  ”わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道”

9月に入っても燃えるような暑さが続いている

暑いと言えば今年は龍馬が熱い 大河ドラマは「龍馬伝」、高知へ行けば龍馬、龍馬、龍馬

高知だけではありません 奥伊予でも小さな村を挙げての大イベントが行われます

その名も 「わらじで歩こう坂本龍馬脱藩の道」

22回目を迎えるこのイベントも今年は特に前夜祭が魅力的だ

今回は前夜祭にも参加、翌日脱藩の道・榎ケ峠〜泉ケ峠15kmを歩いてみよう

6年前に参加した時は、晴天で出発したものの途中から降り出した雨で道はグチュグチュ

おまけに雷まで鳴り出して、余り景色も見ていない

イベントが行われる河辺村に行く前に、付近の龍馬ゆかりの地を少し車で巡ってみます

(河辺村は現在大洲市河辺町ですが、龍馬といえば河辺村のイメージですので河辺村としました)

四国南西部の予土国境に、近代日本の曙を演出した男たちを見つめてきた峠がある

1862年(文久2)3月24日夜、坂本龍馬は沢村惣之丞とともに小雨の中、高知城下を秘かに旅立つ・・・脱藩である

25日に梼原村の土佐勤王党の同志である那須俊平・信吾父子の屋敷で宿泊し

翌26日昼頃、父子の道案内で、ここ予土国境の韮ケ峠(標高970m 脱藩の道最高地点)に着く

信吾はここで引き返すが、3人は峠を越え、河辺村・泉ケ峠までその日のうちに駆け抜けている

韮ケ峠から東は約25kmにわたって、日本三大カルスト台地「四国カルスト大野ガ原・五段高原」が広がっている

龍馬達にそんな時間は無かっただろうが、今日は大野ガ原を車で散策

爽やかな風にススキが揺れ、足下にはアケボノソウが咲き、異常な暑さだった今夏もやっと終わりが見え出した

龍馬は韮ケ峠で「ありがとう オンシ気いつけて帰りや 武市さんによろしく」と、信吾にこんな声をかけたのだろうか?

峠を引き返して行く信吾の背中を見て「過激なことしなきぁいいが・・・」と、ふと不安がよぎったのかもしれない

信吾はこの後4月8日、武市の命を受け、大石団蔵、安岡嘉助とともに、土佐藩参政吉田東洋を暗殺

龍馬脱藩の道は従来、梼原町宮野々から九十九曲峠を越えて城川町の川津南に下るコース(左写真の青線)

が伝えられていたが 大洲市の郷土史家・村上恒夫氏の「覚・関雄之助口供之事」研究によって

現在では韮ケ峠を越え野村町に入った(赤線)と想定されている

右写真は、龍馬の義兄・高松小埜が沢村惣之丞(関雄之助)の口述を記録したものの写し

何本もある予土の峠道の中で、この韮ケ峠が一躍脚光を浴びるようになる

脱藩の道は、韮ケ峠から明日のウォーク出発点・榎ケ峠へと続く

車道沿いの男水自然公園、龍馬が脱藩の際ここで湧き水を飲み心身を潤したと言い伝えられている

榎地区への車道を上って行くと「坂本龍馬脱藩の宿」(民宿)

トウモロコシが吊るされた軒下で作業している老婦人と少し世間話をする

老婦人の先祖には、ここを駆け抜ける土佐の脱藩浪士の姿はどんなふうに映ったのだろうか?

榎地区から山越えして前夜祭が行われる河辺ふるさと公園へ

入り口には、今にも駆け出しそうな坂本龍馬、沢村惣之丞、那須俊平3人の「飛翔の像」が立つ

「近代日本の誕生に命を賭けた龍馬の旅は、ここ河辺村から始まった」との力強い揮毫から

龍馬にかける河辺村の思いが伝わって来る

百日紅の向こうは今夜泊まるふるさとの宿、山間の小さな村に一大イベントが始まろうとしている

 

11日、前夜祭スケジュール

第一部  (河辺ふるさとの宿) 15:00〜17:00

歴史ミーティング「坂本龍馬と国島六左衛門」 〜いろは丸に秘められた謎〜

東京大学史料編纂所 岡美穂子助教

下関市立長府博物館 古城春樹学芸員

大洲史談会 会長 村上恒夫氏

3人のゲスト講話終了後、それぞれの講話を元にパネルディスカッション

総合司会 株式会社おおず街なか再生館 代表取締役専務 河野達郎氏

第二部 (ふるさと公園) 19:00〜 「龍馬の手紙を読む〜朗読・コンサート」 

・朗読 小林 綾子(女優)

・演奏 西村 直記(作曲家・シンセサイザー奏者)

・解説 高知県立坂本龍馬記念館学芸員

篝火が焚かれた野外会場で、龍馬が姉乙女に宛てた手紙を小林 綾子さんが乙女になりきり朗読

龍馬を長い眠りから目覚めさせる様なシンセサイザーの優しい音色が山間に木霊する

いよいよコンサートもクライマックス 「乙女姉さん宛の最期の手紙」のBGMは「龍馬FOREVER」

「龍馬、下界でまた、おまんを呼ぶ声が聞える。やかましゅうなった。そろそろ出番ぞね!」

龍馬は河辺村と共に永遠に・・・・静かな余韻を残して夜は更けて行く

 

9月12日 いよいよ脱藩

トラックログはイメージ図です
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。」(承認番号 平18総使、第582号)

 

榎ヶ峠(9:25)〜御幸の橋(10:05)〜封事ヶ峠(11:00)(11;45)三杯谷・昼食(12:10)

    〜水ヶ峠(13:00)〜泉ヶ峠(14:05)                         (4時間40分)

 

明日は脱藩という緊張感と、おまけに周りから聞こえて来るイビキで余り眠れていない

早朝、河辺川沿いに建つふるさとの宿の周りはひんやりした空気が流れている

見上げれば青空、今日も暑くなりそう

食事を済ませ出発式会場のふるさと公園へ行くと、既に沢山の人が集まっている

龍馬役紹介、完全踏破宣言等セレモニーが行われる

大洲市の市長さんの挨拶は簡潔明瞭で気持ちがよい、この後ご夫婦でAコースを歩かれるそうだ

コースは2つ Bコースは最初車道歩きがちと長い

   Aコース(龍馬脱藩の道オンリーコース)約15km (定員100人 参加費2,500円)   

Bコース(浪漫八橋と脱藩の道コース)約17km (定員200人 参加費2,000円)

その他コース(何かなと思ったら、脱藩の道の一部分だけを歩くとか 定員20人)

前回はBコースを歩いたので今回は早めに申し込みAコースを歩く、両コースは天神社(御幸の橋)で合流する

、マイクロバスに30分程揺られ、Aコース出発点の榎ヶ峠へ向かう 

9時25分  峠には脱藩者が溢れ、賑やかに榎ヶ峠を出発

皆さん足下は色々、草鞋の方もいるがはたして踏破出来るのかな?

それはそうと龍馬さん 予土の峠は他にも沢山あるでしょう

「土佐北街道笹ケ峰越え」で脱藩してくれてたら、「龍馬」・「ウォーキング」をキーワードで町おこしが出来るのに

「そりゃあ長州に近くて、尊攘派に近い勢力が強い大洲藩の領地を通るのが安心ぜよ」・・と言ったかどうか

峠から御幸の橋まで標高差約350mを下って行く 急坂だけど、よく手入れされ歩き易い

Aコース100人の脱藩者は長い帯となって黙々と下って行く 皆さんかなりペースが速い

このルートは長宗我部軍の伊予への侵攻ルートでもある

道の側には、1576年長宗我部元親に攻め落とされた地の森城(山の神城)跡がある(写真右)

ところで脱藩とは「藩主に対する背信行為であり、その罪には家禄没収、家断絶、家族の領外追放などが科せられ

場合によっては切腹や打ち首もあり得たため死をも覚悟した行為だった」そうだ

現在の往来自由の日本ではイメージ出来ないが、今でもアジアのどこかにそんな国が有る様な・・・

命を賭けてまでも脱藩に駆り立てたものとは何だったんだろうか? 

沢村惣之丞らの脱藩ブームに乗り遅れまいと・・・・それは無いだろうが、今一判かり難い

国木集落の車道沿いに立つ「夜明けの道記念碑」

「幕末風雲の中を、夥しい夢を残して懸命に駆け抜けた男、坂本龍馬の偉業を偲ぶ」と刻まれている

わが村の英雄かと見紛うほどの龍馬に対する思い入れだ

ひょっとしたら龍馬もこの茶堂で一休みし、地元の人に接待を受けたのかもしれない

道沿いには手の届く所に沢山栗が実っている 龍馬が歩いたのは3月下旬、桜が満開の時期だろう

10時05分 天神社、此処でBコースと合流

天神社参道の屋根付き橋は、安永2年(1773)に架設されたものが大洪水により流失し明治19年に再現

神が御幸することから「御幸の橋」と名付けられ、愛媛県有形民俗文化財に指定されている

御幸の橋から上り坂の車道を20分ほど歩き、車道から分かれて山道に入って行く

元気な小学生からかなりの年配の方まで参加し、あたかも三世代交流のイベントの様だ

稲穂の中を歩く一団の先頭は龍馬役の男子中学生かな?

出発式で、力が抜けそうな「エイエイオー」の掛け声に笑いの渦が沸き起こったけど

 笑いのツボを会得している龍馬さん、きっと学校では人気者なんだろう

11時 横通り休憩ポイントから、急坂を20分程頑張り封事ヶ峠着 この登りが案外しんどかった

暑くてフラフラだったけど、甘くて冷たい梨のお接待に疲れも吹き飛ぶ

封事ヶ峠から三杯谷までは下り あらこんな所に鳥居がと思って見ると、山中に立派な祠が祀られている

今日のお昼は刈り入れられたばかりの棚田米かな? 楽しみ〜

木陰では時折爽やかな風が吹き抜けるけれど、相変わらず真夏を思わせる太陽が照りつける

「惣之丞、暑いのぉ 水はまだ有るかえ? 今日の宿はもう少しじゃき頑張りや」

龍馬は、これから亀山社中・海援隊で行動を共にし龍馬の補佐役として活躍する惣之丞を弟のように気遣う

滝が近付いてくると、辺りの空気がヒンヤリとして心地良い

木菱川を豪快に流れ落ちる三杯谷の滝を眺めながら 浪漫八橋の一つ龍神橋でほっと一息

龍神橋から階段を登りきったところが三杯谷休憩所

11時45分 三杯谷昼食会場

昼食はお味噌汁と大きなオニギリ三個、大きくて一個しか食べられませんでした

三杯谷といえば、そうそう朝食で山盛りのご飯を三杯とお味噌汁三杯お代わりしていた人!

あまり豪快に食べるので、失礼だとは思いながらもつい見惚れてしまいましたが

「腹が減っては脱藩は出来ん!」 そんな気概と迫力が伝わって来ました

もうそろそろ咲いているかなと、楽しみにしていた彼岸花

ありました!でも一輪だけ、6年前はもうすこし咲いていたと思ったけど、やっぱり今年の暑さは格別

真夏の様な太陽をまともに受ける日除地区の車道歩き、何処かに日除けは無いのかな?

コスモスに癒される余裕も無い

それにしても昔の人の健脚振りは凄い! 龍馬らは高知城下から梼原まで約85kmを1日で駆けている

那須信吾は走ることにおいては馬より速いとまで噂されたというが、俄かには信じがたい韋駄天だ

この時、龍馬は26歳、惣之丞19歳、信吾32歳 3人はともかく55歳の俊平にはかなり厳しい道程だっただろう

1時 長い車道歩きに飽きて来た頃、水ヶ峠着

山歩きに水が貴重な事は今も昔も変わらない 龍馬らは谷に出会ったらほっとしたことだろう

今日は水の心配はいらない、要所要所に冷えた麦茶を用意してくれている

おまけに分岐には道標と、至れり尽くせりの脱藩だ

土佐へ続く山並みを眺めながら龍馬は、「もう二度と土佐の地を踏むことはあるまい」と思ったのか?

(慶応3年、1867年9月29日 土佐に帰国し洋銃を藩に売却、脱藩以来初めて実家に帰っている)

泉ヶ峠はもう近いなと思いながら下って行くと、明るく開けた所にビニールハウスが沢山並び

中からモーツァルト交響曲が聞こえて来る ???

それにしても美味しそうなトマト、「食べたいな〜」と横目に見ながら歩いて行くと

目の前にトマトの山!、前村長・「稲田道場」さんの心憎いお接待でした

冷やされたトマトを一口齧ると、適当に固くて味が濃い

昔懐かしいトマトの香りが口の中に広がり、此処から榎ヶ峠まで引き返せるほどの元気が漲って来た

いつもは早朝2時間聴かせるそうだけど、今日は特別流してくれていました

モーツァルトトマトは「大洲まちの駅あさもや」の人気商品、すぐ売り切れるらしい

後からふと素朴な疑問が湧いて来た、モーツァルトでなくちゃいけないのかな?

演歌やポップス、特にジャズなんか聴かせれば美味しいトマトが出来そうに思うけど・・・訊ねてみればよかった

2時05分 「坂本龍馬宿泊の地」の碑が立つ泉ヶ峠に到着

昔、泉ヶ峠は交通の要衝で、十数軒の茶屋や旅館が並んでいたが、現在は石垣が残っているのみで当時の面影は無い

脱藩ウォークは此処がゴール この後、龍馬らは峠で宿泊し、翌27日、旧宿間村(亀の甲)へ下っている

泉ヶ峠近くの北表村には、「日本一の槍の名人が龍馬を案内して耳取峠を通った」という話が残っている

槍の名人とは那須俊平のことで 自宅に道場を構え、槍術や剣術を教えていた

俊平は、もう道案内は不要となり、旧宿間村(亀の甲)で引き返した

二人は俊平と別れ川舟に乗り、肱川を下って長浜村に着き、冨屋金平衛宅に泊まり四国最後の夜を過ごしている

(俊平は、1864年8月20日禁門の変で壮絶な最期をとげた)

峠を少し下れば迎えのマイクロバスが待っている バスに乗り20分程でふるさとの宿に帰ってきた

  記念品の草鞋、手形を持って脱藩するのもちょっと変ですが通行手形、それから脱藩タオルを頂いた  

駐車場に設けられた直売テントに あっ!モーツァルトトマト 勿論沢山買って帰りました

昨日、駐車場の係りの方に尋ねたら スタッフは60人位、今日はもっと多いような気がする

人口1200人余りの河辺村に脱藩志願者だけで320人 前夜祭も含めて延何人位の訪問者だったのだろうか

年に一度の村をあげての大イベント 表のスタッフだけじゃなく食事やお茶の準備をされた方

草鞋を編んでくれた老人会の方、コースの整備をされた方、コンサートを燈す薪の準備をされた方・・・・etc

龍馬イベントが作り出す河辺村の絆、お接待の心を垣間見た様な気がした

恐らく龍馬も此処を駆け抜けた時、おにぎりや湯茶の接待を受けたに違いない

その心が龍馬脱藩から150年近く経った今でも受け継がれているのだろう

ふるさとの宿ではお風呂まで頂き、脱藩の汗を流して気持ち好く帰途につきました

暑い中、スタッフの皆さん、関係者の皆さん有難うございました

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