2010年10月17日  ”伊予の小京都・大洲散策”

土佐藩を脱藩した龍馬と惣之丞は、肱川を下り予州大洲領長浜から長州に渡ったがじゃ

加藤氏六万石の城下町、伊予の小京都・大洲は

龍馬らが脱藩の際通過しただけじゃなく、あの「いろは丸」と深い関わりをもっているがぜよ

今日はレトロな雰囲気を残す大洲の街を歩いてみよう

大洲藩の紋・蛇の目の船旗を掲げた「いろは丸」(脱藩ウォークで貰ったパンフレットより)

今日を始めと 乗りだす船は けいこ始めの いろは丸

海援隊が、大洲藩から借り受けた「いろは丸」に乗り、勇ましく長崎を出航したものの

笠岡沖で紀州藩明光丸と衝突、瀬戸内海に沈んでしまう

大洲散策スタート&ゴール地点の、大洲まちの駅「あさもや」

後ろの背の高い白壁作りの大洲歴史探訪館には

江戸時代に描かれた海図や「いろは丸絵図」、そしていろは丸購入契約書等

幕末の大洲藩と、いろは丸に関する新史料を展示中

維新当時の大洲藩が薩長土の連携や大政奉還の舞台裏を支える重要な役目を果たした事

また、大洲藩と龍馬の関わり等、興味深い話を聞きました 詳しくはぜひ歴史探訪館へ足をお運び下さい

ボランティアガイドOさんの案内で散策に出発

今日のコースは 「案内人と町並散策、大洲龍馬探訪ぐるめっち (竹)コース 1600円」

食事時間込みで3時間位です

他にも、案内人と訪ねる色々なメニューが用意されています

路地に入ると早速粋なはからい、マンホールの蓋には大洲らしく鵜飼の絵が描かれている

赤煉瓦が敷き詰められた道に、案内板も埋め込まれている

レトロな感じのおおず赤煉瓦館、元は大洲商業銀行だったそうだ、よく見ると煉瓦の積み方が微妙に違う

ちなみに手前の事務所はイギリス積み、その後ろ・金庫跡はフランス積みだとか

奥の建物は屋根が日本瓦で和洋折衷、担保の品を仕舞って置く倉庫だそうだ

赤煉瓦館の中を抜け、ポコペン横丁に足を踏み入れた途端、昭和三十年代へタイムスリップ

「ど〜この誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている 月光仮面のおじさんは正義の味方よ 好い人よ〜♪」

お店の中からだろうか、何処からとも無く蓄音機の曲が流れて来る

小学生の頃、10円玉を握って買いに行ったお菓子が店先に並べられ、懐かしい

肱川河川敷内を臥龍山荘へ向かう、背の高い堤防は何と城壁を思わせる造り

ずーっと川下に、大洲城天守閣が見える

背の高い爽やかなボランティアガイドOさんの説明は、とても丁寧で分かり易い

ほどなく、風情ある佇まいの臥龍山荘に到着

臥龍院の格調高い書院座敷、丸窓、濡縁、障子戸、天井板等に桂離宮様式を模して造られている

畳をあげれば能舞台となるこの書院は、音響効果を高める為床下に瓶が並べられているそうだ

肱川の景勝地、臥龍淵に突き出た茶室・不老庵は、川面に照らされた月の光を反射させる趣向がなされている

日に輝くイロハカエデの巨木、色鮮やかに染まれば綺麗だろうなぁ

「いわはんの田楽おじさん」がひなたぼっこをしている 大洲の名物おじさんだそうだ

武家屋敷や土蔵が建ち並ぶ明治の家並み

ボランティアガイドOさんとは此処でお別れ、一足先に大洲まちの駅「あさもや」に帰られた

予約して頂いていた昼食、大洲名物いもたきはちょっと甘めの味付け、里芋が柔らかくてとろけそう

もう、およそ半世紀も前の「朝ドラ」だけど

樫山文枝扮するおはなはんが木に登って、高橋幸治を待つ場面をありありと思い出す

今放送されたら、全国からどっと観光客が押し寄せるかもしれない

ちなみに、平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%だったとか!

そういえば、おはなはんを見てから登校していた同級生はよく遅刻していたなあ

ところで、おはなはんは大洲の方とばかりに思っていたら、本当は徳島出身だそうだ

「おはなはん通り」を抜けると、直ぐ左が大洲まちの駅「あさもや」だった

銘菓大洲しぐれやモーツアルトトマト、新鮮な野菜を買って帰りました

伊予国一の大河・肱川は、150年前も龍馬らを乗せて今と同じく悠々と流れていたのだろう

川舟から大洲の町を眺めながら、故郷の鏡川界隈の景色を思い出していたかもしれない

大洲といえば鵜飼 川べりには沢山の屋形船が係留されている

龍馬らは船から上がり、名物の鮎料理なぞ食べたかどうか、はたして?

背後には、肱川を見下ろす様に聳える冨士山(とみすやま320m)

春には6万本のツツジが咲き競い、山がピンクに染まる  それからもう一つ、大洲といえばいもたき

大洲がルーツのいもたきは今や全県に広がり、秋の風物詩になっている

4層の天守を川面に写す大洲城

明治期の写真や江戸期に作られた木組みの天守雛形をもとに、平成16年に復元された

龍馬らがこの城を仰ぎ見た時の城主は、小藩の名君と謳われた第十三代藩主・加藤泰秋公

正室は土佐藩山内家の養女・福子様、そして泰秋公の姉・千賀子様は長府藩毛利家に嫁いでいる

あら、土佐と勤王派大洲と長州が繋がった なるほど、龍馬が脱藩ルートに大洲領を選んだのも頷ける

二人を乗せた川舟は、日本の夜明けに向かって肱川を下って行く

大洲盆地の展望台、神南山(かんなんざん、710m)が見送ってくれている

色とりどりのコスモスが咲き乱れる五郎河川敷でちょっと休憩

脱藩の際、四国最後の夜を過ごした冨屋金平衛宅跡

龍馬らは、冨屋金平衛宅すぐ側にある江湖(えご)の港より上関〜三田尻〜下関に向けて船出した

肱川河口にかかる開閉橋・長浜大橋(赤橋)の向こうは、長州、はては世界に繋がる瀬戸の海

この橋は維新への門 「惣之丞、橋を開けや!日本の夜明けぜよ!」

伊予の山間の小さな流れを集めて大河となった肱川が

土佐を脱藩し、これから日本の骨格を変えようと志す若者たちを大海原へ送り出した

時に、1862年(文久2)3月28日のことだったがじゃ

ロマン溢れる「伊予の小京都・大洲」は今、龍馬ブームが加わり見どころ聞き所がいっぱい

今日は同県の身近な街・大洲の魅力再発見の旅でした

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