10’サクラ ”郷 愁”
何年振りだろう、子どもの頃の記憶を辿りながら母校の側を歩いた
ランドセルを背負って通った頃の木造校舎は既に無い
東隅の見覚えある鉄筋校舎は6年生の時に建ったが、その後次々と建てられたのだろう
突如として、いやいや飲んだ脱脂粉乳や肝油の味を懐かしく思い出す
当時は、一クラス55人、松、竹、梅、月・・・確か各学年8〜10クラスぐらいだったかな?
児童生徒が校庭に溢れ返り、歓声が響き渡っていた
豪快に咲く一本桜、公園を埋め尽くす千本桜も日本の春を代表する風景だけど
多くの児童を見送って来た昔と変わらぬ花姿で、静かに主を待つ桜も、もう一つの日本の春の姿かな
そこはかとなく物思う花朧の季節、山里の廃校に咲く桜を訪ねました
3月28日 四国中央市、(写真左)中之川小学校跡(昭和45年3月閉校)
昨夜の雪が残る佐々連尾山が見下ろしている
生徒たちが、遠足で33曲がりより佐々連尾山頂上を経て、中川峠へ抜けたそうだが
小学生の足ではかなりきつかったんじゃないんだろうか?
(写真右) 阿弥陀堂が建つ高台に旧中之川小学校跡の広場
明治19年、中之川小学校の就学児は38名(学齢児68名)就学率56%の記録が残る
当時、就学率平均が50%を切っていた事から考えると高いと言えるが
宝暦年間に、原料の三椏と豊富な水がある中之川で製紙業が芽生え発展
副業としての和紙製造が村の財政を潤したのかもしれない
紙の町・四国中央市の原点である中之川に、雨乞いの竜神様が棲むという「こうやけの淵」伝説が残る
3月28日 四国中央市、久保ヶ市小学校跡(昭和46年閉校)入り口に甲斐野集会所と書かれた看板
校庭には、市指定天然記念物のシイの木が枝を広げ森を造っていた
鎮守の森には必ず植えられていて、どんぐりを拾って遊んだものだ
子どもたちの格好の遊び場、段々少なくなっているのかなあ
「子ども 29年連続減」の見出しで、5月5日の朝日新聞に掲載されていた記事に拠ると
全国の子どもの数(15歳未満)は、前年に比べ19万人減って、過去最低の1694万人
総人口(1億2739万人)に対して13,3%の割合だそうだ
1950年には3分の1を超えていた事を思えば
子ども手当てを出してまで、政府が躍起になるのも分からなくも無い
ちなみに65歳以上の高齢者の割合は23,0%だとか(平成22年4月1日現在)
これから、ますます増えそうな・・・
3月28日 四国中央市、新成小学校跡(昭和45年3月閉校)
現在は新宮少年自然の家で、小、中学生が学校登山で塩塚峰に登る時の宿泊所
普段、家の中で遊ぶ事が多い子どもたちには、あまり歓迎されない行事かもしれない
昔はゲームも無ければ、テレビだってどの家にもあるわけじゃない、外で遊ぶしかなかったんだけどなぁ
何して遊んでいたのかって?
煙突山で、基地を造って、かくれんぼしたり、種子川(たねがわ)を遡ってタシッポ採ったり
今なら、流行のアウトドア、思えばスケールのでっかい遊びだったかも
それが高じてか、還暦過ぎても未だに藪山歩いたり沢登りしている人も居るけど・・・
3月28日 四国中央市、西庄小学校跡(平成7年3月統合)、校舎の裏で桜の古木が、僅かに花を付けている
毎年秋には、隣接する大西神社境内で鐘踊りが奉納される
長宗我部に破れ自刃した轟城主大西備中守の霊を慰める念仏踊り
中でも、妖怪漫画に出て来そうな猿田彦が大人気
妖怪と言えば、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」に貸本屋全盛期の様子が出てくる
子どもの頃、橋の袂の貸本屋でいろんな漫画本を借りて読んだのが懐かしい
剣を取っては日本一の〜♪ 夢は大きな少年剣士〜♪と、唄いながら
新聞紙を細長く丸めて、得意気に少年剣士・赤胴鈴乃介の真空斬りを真似た時もあったなぁ
そうそう、「面」といって頭を叩いたら泣いていたヒロちゃん、どうしているかなぁ
3月28日 四国中央市、寺内小学校跡(平成19年3月閉校)
閉校となって日が浅い校舎は、今にも子どもたちが元気よく飛び出して来そうな気配がする
最近、外で遊んでいる子どもの姿を見かけないとよく話題になるが、幸いにも我が家の近所は子沢山
縄跳びしたり、ローラースケートしたり、賑やかに遊んでいる
出会うと「こんにちは〜」と、元気な挨拶が返って来るのが嬉しい
子どもは国の礎、おじちゃんやおばちゃんたちの年金、宜しく頼みますよ〜(笑)
4月7日 西条市立大保木小学校跡(昭和60年3月閉校)
校庭のソメイヨシノは市指定天然記念物、開花時期には今も沢山の人が訪れるそうだ
廃校を訪れた卒業生のメッセージが黒板に残る
おや、教室を覗き込んだり、黒板の文字を懐かしそうに眺めているのは、誰だろう?
手を引かれている小さい子はどこか見覚えのある顔だが・・・「かっちゃん、そう、かっちゃんの小さい頃にそっくり」
そういえば、「上ったらいけません」と先生に叱られながら、よくわしの背中に跨っていたなぁ
腕白振りは学校一、でも女の子には滅法優しくて人気者だった
あれから半世紀以上は経っただろうか、頭も少し白くなり、優しいお祖父ちゃん振りじゃないか!
共に、石鎚に見守られ加茂川の流れの側に建つ旧校舎
4月7日 西条市立高宮小学校跡(昭和55年3月閉校) 今は、西条少年自然の家
4月7日 西条市立高嶺小学校跡(昭和62年3月閉校) 現在は「石鎚ふれあいの里」
子どもが少ないのも困るが、多過ぎても当の生徒たちは大変
グランパが高校生の頃は教室が足りなくて、体育館を4つに仕切った俄か仕立ての教室で勉強したとか
薄いベニヤ板一枚の仕切りだから、隣のクラスの声が筒抜けだったそうだ
そんなことに文句を言う親も生徒も居なかったらしいが、今だったらモンスターペアレントが押しかけて来るだろうな
4月7日 西条市立中之池小学校跡(昭和47年3月閉校)
1、 伊予富士の峯 中空に おおしくそびえ おごそかに
あかるく強く すこやかと 我等におしえ しめすよう 中之池 中之池 我等が郷土
2、 扇の山に まもられて 立つまなびやの 窓きよく
まことの道を うしなわず ひらけのびゆく 末広に 中之池 中之池 我等が郷土
3、 寒風山に 風強く いかにあらしの すさぶとも
けだかくにおう この庭の 梅の花こそ わが心 中之池 中之池 我等が郷土
加茂の川風 さわやかに 我等のうたを ふきならせ 中之池 中之池 我等が郷土
校庭の梅が歌われているけれど・・・当時はこの枝垂桜はまだ小さかったのかな?
作詞の秋川栄三郎さんは、「千の風になって」で一躍有名になった秋川雅史さんのお父さん
枝垂桜の他には何も無い学校跡に、名山に囲まれて、加茂川渡りの心地よい風が吹き抜ける
多くの子どもたちを見送りそして迎え、子どもたちと共に成長し続けて来た一本の桜、今年も見事に咲きました
4月11日 四国中央市下猿田、猿田小学校跡 (昭和54年3月閉校) 上猿田の茅葺民家
かろうじて花を付けた老木の姿に、立ち去りがたい想いが込み上げる
昨秋、”父と「きりん」”という小冊子を知人に頂いた
若き日の父を偲んで頂ければと3回忌に纏められたものだ
「きりん」というのは、戦後間もない頃、詩人の足立巻一氏を始め当時毎日新聞社に勤めていた井上靖氏らが
関西一円の児童から投稿された詩を編集し、日本で一番美しい子どもの詩集を目指して発刊した月刊誌
若き日のご尊父S先生は、感受性が鋭く人情家で熱血漢
近くの山に子どもたちを連れて行って「さあ、作文でも詩でも好きなように書け」と
そのS学級から素晴らしい詩がたくさん生まれた
時計
きんやさんの手に書いた時計 一日たっても動かない
赤いいんきでかいてある いつもおやつの時間です
「・・・略・・・さかんにいい作品を送って来てわたしたちを驚かせていた生徒です
美しい詩のことばは人の心に食い入って一生はなれないものだと思います
私自身も今そのような詩を書きたいと思っています」と、井上靖氏が序文に書いている
ろくに親孝行も出来なかった子どもから父への詫び状だと、纏められた冊子
突然の別れに戸惑いながらも静かにそれを受け入れようと努力している想いに、胸が篤くなった
昨秋、「またね」と手を振って別れた翌日、父が脳幹出血を起こして他界、89歳でした
最期は安らかな綺麗な顔を見せてくれたので満足して逝ったのだと自分に言い聞かせ、泣かないで見送ろうと
でも、日が経つにつれ、あれもこれもと心残りの事ばかり浮かびます。お父ちゃん児でしたから
4月11日 翠波峰が見下ろす金砂小学校跡(平成年3月)、学校前には金砂湖畔が広がる
思えば、中学校の学校登山で、熱でも出たら大変だとおいていかれた生徒が
山歩きを始めるなんて、担任だったO先生もビックリされているだろう
数えてみたら15年、飽きっぽい性格にしてはよく続いている
ロマン路線が性に合っていたのかな?
そんなこんな古い事を思い出していたら、突然頭の中にメロディーが
ど〜この誰かは 知らないけれど 誰もがみんな 知っている〜
月光仮面の おじさんは 正義の味方よ 好い人よ
疾風のように 現れて 疾風のように 去ってゆく〜
月光仮面は 誰でしょう 月光仮面は 誰でしょう〜♪
大きくなったら月光仮面のおじさんのような正義の味方になろうと思ったのも、遠い昔
毎日毎日エンドレスの家事をこなす平凡な主婦が、天下国家の事を言うのも口幅ったいが
言い訳ばかりがまかり通り、正義なんて言葉も死語になりそうな現代、しっかりしてよ鳩山さん!
こんな取り止めも無い事を書いていたら、ページがいくらあっても足りなくなる
続きはまたの機会にして、この辺で、The endにしよう