2011年12月05日  ”笹ヶ峰”

炭の古道を見守り続ける母なる山は、霧氷とガスで真っ白でした

GPSによるトラックログ(今回はチチ山へは行っていません、ログは以前のです) 
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。」(承認番号 平18総使、第582号

 
登山口(7:40)〜(8:25)宿〜(8:55)丸山荘(9:05)〜(10:00)笹ヶ峰(10:20)チチ山のコル(10:25)
(11:00)丸山荘(11:20)〜(11:35)西山越〜(11:55)宿〜(12:35)登山口       (4時間55分)

 

昨日(12月4日)「炭の古道」ー江戸時代の別子銅山と宇摩郡ー という歴史講演会を聴講した

@製錬に必要な木炭を運ぶ道が、銅山近辺の山林を伐り尽くしたため遠地へと伸長した
Aその範囲は土佐、今治、西条、小松の各藩にまで及んだ 
B泉屋から支援要請を受けた川之江代官所が、稼人「中持」の募集に深く関わっていた

講演内容はまだまだ奥は深いが、当時の記録を入念に調べた興味深い講演をお聴きして

銅山川を取り囲む峰々を越える峠道は、全て別子銅山に通ずるという認識を新たにした

元禄4年(1691)銅山開坑とともに、多くの中持さんが歩いた炭の道

今では、一部登山道として残っているものの、途絶えてしまったものもある

山は霧氷の季節、今日は、炭の古道の一つを中腹に抱えていた笹ヶ峰を歩きます

下津池から吉居林道を進み登山口に到着 そんなに気温は低くない

7時40分 登山口を出発 、豪快に流れる吉居川右岸を遡って行く

早春、可愛い妖精たちに出会える場所を過ぎ、小広い沢に出ると、足元の鉄管が目に付く

出発して45分ほどで宿(しゅく)、西山越は帰りに歩くことにして丸山荘直登の道を行く

薄暗い桧林を抜け橋を渡ると、明るい自然林が開けてくる筈だけれど、残念ながら日差しが無い

登山道沿いに次々現れる苔むしたブナの古木、樹齢は200年以上だろうか?

水分の多いブナは炭に不適なのか? 伐採を免れ悠然と立っている

真夏には、下を歩く中持さんに木陰を提供したのかもしれない

間もなく訪れる本格的な冬に、気(木)を引き締めているかのようだ

錆付いた古い道標を見て真っ直ぐ進めば、程なく丸山荘

8時55分 丸山荘 屋根の上を見上げると、霧氷を一杯つけた象の様に大きな図体の笹ヶ峰が迫ってくる

時折雲間に稜線が見え、思わせ振りな青空もチラチラ このまま雲が退いてくれたら、言う事無しよ

が、思い通りにならないものは、「山の天気と加茂川の流れ」

ガスは退かず、樹林帯を抜けて笹斜面に出ると強い風が吹き上げてくる

とは言っても、平家物語に登場する豪腕白河天皇でさえ、思い通りにならないものが有ったそうだから仕方が無い

因みに「賀茂川の流れとサイコロの目と比叡山の僧兵」だったとか

それじゃ、お天気は思い通りになったのかなぁ?

身体も気持ちも未だ真冬バージヨンになってないので、余計に寒さが堪えます

寒風山方面への縦走路分岐 標識は凍り付いている

珊瑚礁のような霧氷のトンネルを抜けると頂上は目の前ですが、依然ガスが晴れる気配無し

10時 笹ヶ峰山頂 何も見えません お不動さん何とかして下され〜

ほんの一瞬僅かに青空が覗いたが、写真を数枚撮っただけで山頂通過

頂稜を抜きぬける風が頬を叩く、寒くて痛くて霧氷を楽しむ余裕なんて無い

目深にフードを被り、足早にコメツツジの霧氷の中を歩く

コル手前で風除けをしながら、サンドイッチ休憩をとり熱いコーヒーで温まる

チチ山方面は濃いガスの中、何も見えませ〜ん 「パスじゃ」と、即座に決定

頂上から、別子銅山を取り囲む山々や峠をのんびり眺めたかったのに、残念!

(チチ山へ行ってれば、ひょっとしてもみじ谷で青空だったかも? 二人揃って、辛抱が足りません)

10時25分 コルから、真っ白なもみじ谷へ下り始める

もみじ谷の主・オオイタヤメイゲツは、年老いた身体で、重たい霧氷を必死で支えている

晴れていればなぁと見上げていたら、霧氷が頭に落ちて来て「オオイタ」

岩を飾る氷柱の芸術、見るからに寒そうだけど風が無いのでそんなに寒くは無い

勝手にもみじ谷の「御塔石」と呼んでいる大岩もガスの中、薄っすら浮かび上がるその姿は一際険しく感じられる

大岩直下の急涯は手掛かりが無い上に雪が乗り、油断をすれば滑り落ちそうなので慎重に

今春、ガリガリに凍ったもみじ谷トラバースを諦めて、(右写真の場所より)もう少し奥の所から直登して尾根に出たけど

手前の枝に赤いテープが、尾根直登分岐の印だろうか?道と言うほどの道は無さそうだけど・・・

急斜面のトラバースを終えた付近にある小広い平地

HP「萩生の森」 okaさんの山行記に拠れば、この場所は

木下傳次郎氏が建立した”石鉄神社”跡だという事が、「親子三代笹ヶ峰物語」に記されているそうだ

そういえば「炭の道」と呼ばれる道があるという事も、okaさんの山行記で初めて知ったんだわ

11時 丸山荘を起点に、2時間余で一周して帰って来た

海の方に青空が広がってはいるけれど、笹ヶ峰を見上げれば重く垂れ込めたガスの中

のんびりベンチに腰掛お昼御飯を済ませてから、西山越向けて歩き始める

心なしか勢いが感じられないブナの古木、もうかなりのお年ですねぇ

快適な道を進みカラマツ林が見えて来たら、間もなく西山越

あれ、ガスが薄くなって来たんかな、赤石山系が見えているよ

「炭の古道」の一つ、天ヶ峠越えで運ばれて来た木炭は宿に集積され、此処西山越から別子へと向かった

東を見てみると、道らしきがあるようにも無いようにもみえる

西山越から少し下ると炭が敷き詰められた掘割の道 江戸期の炭が、残っているんだろうか?

話に拠れば、別子銅山の御用銅供出ノルマは432t〜458tで、鉱石製錬に必要な木炭は、その4倍だとか

木炭用に別子銅山近辺の山林を刈り尽くし、段々と遠方へ広がっていき

その運搬路の要所、要所に炭宿(中継集積所)が設けられ、農閑期に雇われた中持さんに運ばれたそうだ

「役用記」に、厳しい労働で長続きせず人集めに苦労した様子が記されていたが

農閑期と言えば雪も降り始める頃、重い炭を背負って雪道を歩くなんて考えただけでもしんどくなる

(「役用記」・・江戸時代に書かれた伊予国宇摩郡川之江村の公用記録、村役所の公的な日誌)

(講演会資料) @享保9年(1724)に、初めて吉居中宿、西山越の地名が見える  

A文久2年(1862)の諸御用留帳 西条領荒川山村文書に拠れば、大町組大庄屋から

山分庄屋宛に、昨年末炭運搬人不足で銅吹方滞っているので助勢に行くよう伝えたが、

1月20日になって未だ登山者はいない。都合の好い人は行くように勧めている

西山越から15分程で宿、林立する桧林の隙間から気持ちよい日差しが降り注ぐ

見上げれば青空、先程までの天気は何だったんだろう

今は「宿」の名前を残すのみで、多くの人が行き交った面影は何処にも無いけれど

炭の中継集積場・炭宿として賑わった往時に想いを馳せる

宿を後にし吉居川沿いの下山道から振り返ると、笹斜面の霧氷が青空に輝いている

何時ものパターンでしたと言うには、あまりの変わり様に唖然・・・言葉も無く、只管歩くのみ   

12時35分 溜息を吐きながら登山口に下り立った

 

別子銅山で使用された炭は、石炭、コークス導入に伴い、明治35年(1902)をピークに漸減したそうだ

200年以上の間「中持さん」たちが歩いた「炭の古道」の多くは、今では歴史の中に眠ってしまっている

木を伐り、炭を焼き、運んだ人々に支えられ、泉屋から住友へ、銅山の繁栄は炭と共にあったといえる

あれ、炭と共にって・・・それで、住友になったのかなぁ?

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