”崇徳天皇ゆかりの地を尋ねて partT”

2012年02月17日 ”王越山〜鎌刃越〜前山”


GPSによるトラックログ(カシミールソフト使用)
「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び
数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。」(承認番号 平18総使、第582号


塩釜神社(9:20)〜(10:25)王越山〜(11:00)西行庵(薬師堂)〜(12:00)前山〜(13:40)塩釜神社 (4時間20分)


遊びをせんとや生まれけむ〜♪ 大河ドラマ「平清盛」にながれる今様


貴族から武士へと権力の中心が移っていく平安末期、保元・平治の乱に勝利した清盛が台頭、平家一門が栄華を極める

一方、保元の乱に敗れ讃岐配流となった悲劇の天皇・崇徳天皇は、その清盛と血の繋がった兄弟

坂出市観光協会は、4月より毎月第三日曜日に市内に点在するゆかりの地を訪ねるバスツァー「悲運の帝・崇徳上皇の足跡を追う」を企画するなど

今まであまり知られなかった歴史ロマンが、俄かにクローズアップされて来た

今回は、日本三大怨霊として畏れられた崇徳天皇ゆかりの地を尋ねて、partTです



保元の乱で敗れた崇徳天皇は讃岐へ配流となり、京都を出て11日目の8月3日に「松山の津(坂出市高屋町)」に上陸

讃岐国司庁の綾高遠の館(林田町中川原)に入られ、仮御所・雲井御所で約3年間過ごされる間

御所近郊へ散策に出られるばかりでなく、丸亀の男山八幡宮、伊予道後の石手寺への御幸遊や

金刀比羅宮に参籠された事などが伝えられている

国府近くに鼓ヶ岡御所が落成し、綾高遠の館から移られた後は不自由な暮らしとなり、悲嘆に暮れる日々を過ごされた

そうした中、後生菩提の為にと3年がかりで五部大乗経を書写、父鳥羽院に供えてほしいと送るが納経を拒絶される

憤慨された崇徳天皇は「日本国の大悪魔とならん」と叫び、舌の先を食いちぎり、滴る血で大乗経に天下滅亡の呪いの言葉を書き記す

その後は髪に櫛を入れず、爪も切らず生きながら天狗の姿になって生霊となり平治の乱を起こす

怨念が募ったまま、長寛2年(1164)8月26日、46歳で崩御、白峯で荼毘に付される

写真右の「血の宮」は崇徳院をお祀りする高家神社(左隣は新四国曼荼羅霊場第14番観音寺)

崇徳院の棺を白峯に運ぶ途中、激しい雷雨に遭いこの神社で休んだところ棺から血が流れ落ちた

後日その場所に高家神社を建て御霊を奉祀、里人は「崇徳天皇血の宮」と呼んでいる



県道16号、高松・王越・坂出線を進むと白波の向こうに瀬戸大橋 

海岸線を走り瀬戸内海に大きく突き出た乃生岬を回りこむと乃生漁港、目指す塩釜神社は近い

塩田で栄えた坂出だけに、塩釜(塩竈)と名のつく神社は多く、他にも4箇所ほどある

塩釜神社の前の広場に駐車して出発




停泊中の釣り船を見ながら歩いて行く、正面が王越山

坂を登って行くに連れ、風が強くなる

先ずは、王越山の北嶺に鎮座する梅宮八幡神社にお参り、海の宮で海神が祀られているとか




随神門の向こうにスタイルの良い王越山が聳える

以前見た時、その美しい姿と名前が気になっていたが、王って崇徳院の事かもしれないと思い調べてみたら

海と山に隔てられているから尾根を越えないと他の地に行けないので尾根越→王越山

神功皇后が征韓の折、上陸し越えた山として伝えられており→王越山

残念ながら崇徳院との繋がりは見つからなかった

登山口は笹で藪いていたが、少し進むとまぁまぁ確りした道



岩が出てきだしたら間もなく頂上、急坂はトラロープも設置されていた

登山口から20分程で、御嶽神社が祀られている王越山頂(236m)東側はまずまずの展望

讃岐は雨の少ない国  その昔、この場所で雨乞いが行われていたようだ


頂上から、南へ少し下りたところにある大岩が絶好の展望所

塩釜神社に停めた車が見える、ひっきりなしに大型車が出入りしていたと思ったら

埋め立中のようだ、乃生湾に広大な運動場が出来ている

それにしても、草木の成長が良い南面は、スズタケに隠れた棘に引っ搔れて、痛い痛い




車道まで下り立ち、
西行が庵を結んだと言われている西行庵(薬師堂でお茶休憩

句碑に「行々讃岐の眞尾坂の林といふにしばらく筇を植む」と雨月物語の一説が書かれ

西行がこの庵に滞在し、白峯御陵を詣でたことが記されている

まつ山の なみのけしきは かはらじを かたなく君は なりまさりけり




石垣に「西行乃みち」の碑 西行が白峯御陵に詣でた道はミカン畑の中を縫うように残されている 

坂道を進んで行くと、イノシシ避けの柵が設置され、この先ワナに注意するようにとの貼り紙

昔は、たくさんの人々が通ったであろう王越集落と松山を結ぶ往還も今は通る人も無くイノシシの運動場なのだろう



柵を通り抜け碑に導かれ進んで行くが、薄暗くてイノシシが出て来そうな雰囲気 ちょっとビクビクしながら歩く

西行の歌碑も建つ 萩踏んで ひざを屈めて 用をたし はぎのはねくそ これがはじめて

なんとまぁ、西行さん 哀ればかりかと思いきや、大胆な句も詠むんですねぇ!



背伸びをすれば木々の間から王越山が垣間見えたが、それにしても殆ど展望の無い道

柵から20分程で、お地蔵様が祀られた鎌刃越  立派な道標が建つ



白峯御陵を目指し松山へ下りて行く西行さんと別れて、此処から280m先の壇の峯(前山)を目指す

道は薄いが、要所要所に赤テープがあり迷うことは無い



山頂標識は無いけれど此処が一番高い所(337m)、行く手にテープは見当たらないが尾根を真っ直ぐ進んで行く

やっと展望が開けたと思ったら、目の前にスタイルの良い王越山、背後に乃生湾が広がる

此処はパラグライダーテイクオフ基地、風が吹き上がって来て寒い

ここから林道まではモノレールが続いている、パラグライダーの荷物を乗せてくるのだろう

  

林道を歩いていくと、坂出の番の州方面が開けて来た、このまま林道を行けば松山の方に行ってしまうので

地図を見て、池の手前から破線の道を右折しようと思っていたけれど、少し手前のミカン畑でモノレール発見

下のミカン畑まで続いているかもしれん 絶対近道よと、喜び勇んで下りて行ったら・・・あらら

 

モノレールが途切れた所に建つ作業小屋から下は急崖、隙間なく生い茂った竹林や棘が通せんぼ

やっと下のミカン畑まで下りて来たと思ったら、イノシシ避けの柵に阻まれて出られません(泣)

罠に気をつけ、ちょっぴり、イノシシの気分も味わいながら何とか柵を乗り越え、無事に

でもないか・・・ヒッツキムシをいっぱいくっ付け、おまけに引っ搔き傷だらけになって下山  

やっぱり、急がば回れという事でした



鎌刃越で別れた西行さんは松山へ下り崇徳天皇が眠る白峯御陵へ

02月12日  ”白峯寺

青海神社(10:20)〜(10:50)白峯御陵〜(11:00)白峰寺〜(12:00)青海神社駐車場  (1時間40分)



鳥居に崇徳天皇と書かれた扁額がかかる青海神社(煙の宮) 御祭神は崇徳天皇とその母・待賢門院

長寛2年(1164)9月18日戌の刻、崇徳天皇の玉躰を白峰山稚児ヶ嶽で荼毘に付した時

火は三日三晩燃え続けたが、その煙は天に昇らず、東の山麓になびいていき

紫煙棚引く其の中に尊號が白く顕れ、暫時にして消え失せたその跡に霊玉が残されていたそうだ

霊玉が遺された地に宮殿を造営、御霊をお祀りし「崇徳天皇煙の宮」と奉称されて来た



青海神社の鳥居に対するように、「崇徳天皇白峯の陵」 「西行法師の道」と刻まれた立派な石柱が建つ

舗装された参拝道沿いに、奉納された崇徳天皇と西行の歌碑が並んでいる

西行が高野山で修行中に保元の乱が起き、敗れた崇徳天皇は仁和寺に蟄居

この時西行は命の危険をも顧みず崇徳天皇の元に駆けつけるが、逢うことは叶わず

蟄居廃帝された崇徳天皇を見舞ったのは西行唯一人、配流を知るや院を慰める和歌を讃岐に送ったそうだ

和歌を通じて交わる内に、一歳年少の天皇と心を通わせていたのだろう

一つ一つ詠みながら歩いていたら、白峯寺になかなか着けそうにないので、途中からパス



石段を登って行くと、白峯山が輝き切り立った急崖に、流れが凍りついた稚児ヶ滝が見える

啼けば聞き 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす (崇徳院)

歴史の大きな転換となった保元の乱で敗れた崇徳天皇は、都を恋しく思いながら憤怒のうちに崩御

思いやれ 都はるかに 沖つ波 立ちへだてたる 心細さを (崇徳院辞世)

それから4年後の仁安3年(1168)、西行は供養に白峯御陵を訪れる



振り返れば、瀬戸大橋が連なる穏やかな海       崇徳天皇が眠る白峯御陵が杉木立に囲まれて建つ

安永5年(1776)出版の「雨月物語」
上田秋成著に西行の深い哀しみが書かれている

稚児ヶ嶽という険しい峰が背後にそびえ立ち、千尋の谷底から立ち昇る雲や霧で目前がはっきり見えない所の

木々の隙間に高く盛り土し、その上に石が三段重ねに積まれ、茨や蔓草に覆われていている、「これが院の御陵なのか」 

野生の鹿しか通らず、参詣する者もいない、こんな深い山奥の雑草の下におかくれなさっているとは何とも嘆かわしい

せめて一晩中供養申し上げようと、御陵の前の平らな石の上に座り、経文を静かに読み上げ、歌を詠み申し上げた


松山の 浪のけしきは かはらじを かたなく君は なりまさりけり


「円位よ、円位(西行の法名)」 松山の 浪にながれて こし船の やがてむなしく なりにけるかなとご返歌

讃岐に流され、夜明けに千鳥が洲崎で騒いでいるのも私の心をかき乱す


この世を去っても、憤慨の炎は激しく燃えて未だ尽きず、遂に大魔王となり、三百以上の魔物の首領となったのだ

・・・(略)・・・その時、峰谷が揺れ動き、風が木々を倒さんばかりの勢いで吹き、砂を空に巻き上げた

そして見る見るうちに、一塊の陰火が院の足元から燃え上がり、山も谷も昼間のように明るくなった

院の御表情をよくよく拝見すると、朱色の御顔、膝まで伸びた茫々髪、白い目を吊り上げて、灼熱の息を苦しそうについておられる

御衣は柿色でひどく煤けていて、手足の爪は獣のように生え伸び、その御様子はさながら魔王のようで、みすぼらしいが恐ろしくもある

院が空に向かって、「相模、相模」とお呼びになると、鳶の様な化鳥が空から飛んで来た

西行は魔道の情けない様子を見て、涙を堪えることも出来ない 再び一首の歌を詠み、仏縁に繋がるよう院にお薦め申し上げた

よしや君 昔の玉の 床とても かからんのちは 何にかはせん


すると御表情も和らぎ、陰火も次第に薄くなって消えて行き、とうとうお姿もかき消すように見えなくなった



崇徳天皇の霊廟・頓証寺殿の前に立つ白峰山の守護神・相模坊天狗

今も、崇徳天皇の霊に仕え、お護りしているかのように剣を振り上げて立っている


四国霊場第八十一番札所白峯寺(ご本尊・千手観音)にお参りし、切り立った稚児ヶ嶽の上部周辺を散策後下山



今日は最高の雪山日和だっただろうなぁと、青空を見上げながら参道を下って行く

帰路、八十場に回り、崇徳天皇を祀る第七十九番札所天皇寺と白峰宮へお参り

さぁ、はよ帰って大河ドラマを見なくっちゃ 「今夜は崇徳さんも出るかな? 楽しみ〜」


(追記) 配流地の讃岐を当て「讃岐院」と追号で称されていたが、次々と起こる「天下の悪事」が院の祟りだという事で

御霊を鎮めるため歴代天皇に列し、安元3年7月29日「崇徳」という諡号(しごう 天皇を称える号)が贈られる

大半の天皇が元号を追号として贈られるのに対し、諡号を贈られた例は少ない

加えて、後白河院の命により、崇徳院が在位中に落慶法要した成勝寺で法華八講が行われた

こうした一連の鎮魂供養により、崇徳院の怨霊が社会に認知され正真正銘「日本史上最恐の怨霊」となった

時を経て、崇徳天皇七百年式年祭の元治元年に「崇徳天皇の神霊を京都に奉還して慰め奉るべし」と

孝明天皇の叡慮により京都に白峯社を創建する事が決まった

慶応4年9月6日、崩御されてより七百年余を経てようやく京都に戻られたのである

因みに、八百年式年祭は東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)

白峯御陵に勅使を迎え、法要が執り行われる当日は雷鳴が鳴り響き激しい雷雨に見舞われた

荼毘に付された日も、京都に遷霊された日も豪雨だったとか、未だ鎮まらぬ崇徳院の怨涙なのかもしれない


(参考文献 「怨霊になった天皇」竹田恒泰著 小学館)


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