表題の「大永六地蔵山」が正式な山名では無いかもしれませんが、此処だけということで使わせて頂きます
つい先日、鎌滝山で石鎚蔵王大権現さんに会った日
エントツ山さんや、ペーコさんから、角野小学校の裏山に祀られた石鎚蔵王大権現の情報を頂いた
取り付きが分かるかどうか、ちょっと不安だけど、「何とかなるよ」と・・・呑気なものです
目指す鉄塔、其の右上の尖がりピークを見定めながら車を走らせ、出発点の内宮神社に着いた
わが母校・新居浜市立角野小学校に隣り合う内宮(うちのみや)神社が出発点です
鳥居前に、「太鼓台の登る参道」と書かれた立派な標柱が立つ
新居浜と言えば、勇壮華麗な「新居浜太鼓祭り」が全国区
未だ夜が明けきらぬうちに、晴れがましく太鼓を打ち鳴らしながら太鼓台がこの石段を駆け上がり秋祭りが始まる
故郷を離れて半世紀近く経つと言うのに、今尚太鼓の音を聞くと新居浜人の血が騒ぐ
先ずは強足神(牛馬神)にお参りしようと、石段を上がって直ぐ左上に祀られている祠へ
あれ、祠の右後ろに道が続き、その少し先に住友共同電力の指標が見える
運良く鉄塔への道が見つかったのも強足神のお蔭です 手を合わせ、山道に入って行く
少々の藪は覚悟していたのに、しっかりした保線路です
強足神から急坂を登る事20分余で、183鉄塔と184鉄塔の分岐 184を指す横掛け道を進む
尾根を乗り換え、分岐(2段上の右写真)から20分弱で184鉄塔
真下に、煙突山、祭りに絢爛豪華な寄せ太鼓の妙技が繰り広げられる山根グランドが見えてます
ペーコさんが90分かかって刈ったというサルトリイバラと羊歯の藪、今日は楽々90秒で歩けました
ペーコさん、ありがとうございます
184鉄塔から30分で、三角点(495.8m 点名 大永山) 今日の最高点です
三角点からの展望は無いけど、直ぐ南の西連東線19鉄塔からは串ガ峰、西赤石山の山並みが見える
鉄塔表示が立つ 鞍部まで下りて行くと、立川分岐(「立川町→」の標識有り)
立川への道を分けて直ぐ、大永部落(左)との分岐(左写真) ここは直進する
2,3分進むと、大久保(左)との分岐(右写真)
尾根道は辻ガ峰へと続いているが、右の植林帯に引き寄せられるように入って行く
直ぐに、衆生を救済すると言う地蔵菩薩の分身・六地蔵が祀られた祠があり
その奥に、石鎚蔵王大権現!
崩壊寸前の建屋で野晒し状態ではあるが、三体の蔵王大権現像が彫られた石碑は思ったより大きい
台座前面に、笹峰石鎚神社 日乃下?奥ノ院 大永六地蔵山 清身権現
台座裏面には、昭和八年六月建立 新居郡中萩村大字大永山 施主 瀧本今太郎
そして、台座に高さ20cm程の石鎚蔵王大権現像(前に石鉄山、光背に伊豫国 前神寺とある)
(1977年 山川出版社 「四国の風土と歴史」 山本大・田中歳雄 著 「修験の霊峰石鎚」より抜粋) 平安末期の「長寛勘文」には、石鎚山に熊野権現が勧請された事が記されており
後白河法皇編纂の「梁塵秘抄」に「聖の住所は何処何処ぞ。大峯葛城石の槌・・・」と詠われている
このことは、遅くとも鎌倉時代には「石鎚蔵王大権現」信仰が広まり、石鎚山が修験道場だったことが言える
室町時代に入ると、讃岐の細川勝久や伊予湯築城主・河野教通、伊予国分城主・福島正則など
守護大名による石鎚信仰が盛んになり、代々石鎚山を厚く崇敬した
藩政期には、西條藩主の一柳直興や松平頼純が寄進するなど領主階層の保護を受け
岩場絶壁に、一・二・三のオクサリがかけられた江戸初期に、石鎚登拝が庶民階層にまで広がっていく
「西条誌」巻十二に拠れば、延宝年間(1673〜1681家綱、綱吉の時代)に先達制度が存在しており
先達に導かれた信仰登拝「石鎚講」が広がっていったと思われる
昭和21年(1946)、石鎚神社によって組織された宗教教団石鎚本教は
愛媛、高知、香川、広島、山口、福岡などを中心に100の教会があり、60万人の信徒を擁している 今も、7月1日から始まる夏季大祭中には白装束の老若男女が唱える「ナンマイダンボ」がお山に響いている
12時のチャイムも鳴ってた事だし、立川分岐まで戻りお昼にしよう
可愛い小鳥の囀りでも聞こえてきたら言うことないけど、真下の県道を走る車の音が賑々しいが
標高差はホンの300mほどのV字谷だから、仕方がない
地図を見て、「30分ぐらいで下りられるかな」と水平道を歩き出す
こんな調子じゃ何時までたっても立川に下りられんわと思ったのは、最初だけ
直角に振ると、いきなりの急坂! 気を抜く暇も無く、崩壊地までも現れた
40分かかってやっと下部鉄道跡に下り立った時には、汗ビッショリ(住友共同電力の保線路標識有)
このまま下部鉄道を北進すれば内宮神社に着くが、対岸の車道を確認(吊り橋を渡った所が、新道バス停)
引返し、川沿いの道を下って行くと、お年寄りがゲートボールに興じている広場に出る
此処は、近代化産業遺産に指定されている「立川中宿跡」、「立川精銅所所跡」
広場から、下部鉄道跡に登り返し鉄道ロマンに浸りながらのんびり歩く
雰囲気の良いトンネルを抜け、松山道高架を潜る
対岸に、子どもの頃遊んだ懐かしい煙突山や生子山が近付いて来た
校庭から眺めていた山に、まさか登ることになろうとは思いもよらなかったけど
石鎚蔵王大権現のお蔭で、故郷のもう一つの顔が見えて来た
別子銅山と太鼓祭りの歴史だけじゃなく、石鎚信仰の歴史も深く根付いていたようです
80年余、祭り太鼓の音を静かに聞いてきた石鎚蔵王大権現の事を思い
今秋の太鼓祭りは、何時もより感慨深いものになりそうです
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