2018年01月20日  ”金毘羅街道 「樫ノ休場越え」”


GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
 承認番号 平18総使 第582号る



図書館に寄贈された本、「街道と里道、調査報告集『三好の古道』(三好郷土史研究会編集発行)」を

読んでいたら、三好地区に興味深い「古道」がワンサカ

正月早々、山城町の賢見神社、そして加茂金川谷の石鎚神社を尋ねて大感動でした

続いて、讃岐への道「金毘羅街道、樫ノ休場越え」と、阿讃の峠を目指そうとしたら

思わぬ大雪に阻まれ、歩いただけで終わってしまった

一週間後、春の陽気を思わせる暖かい日差しの中、再訪


駐車地点(7:50)〜(9:40)伊勢神社(9:50)〜(10:30)林道樫ノ休場線起点〜(10:55)△樫ノ休場
(11:00)樫ノ休場〜(11:25)△中蓮寺(11:45)〜大神宮・水谷地蔵〜(12:25)樫ノ休場(12:35)
(13:25)林道井ノ久保線起点〜(13:45)常夜燈〜(14:00)尾根(14:10)〜(15:25)駐車地点
                                                 (7時間35分)



県道琴南・三野線沿い、 「八枚なべら」説明板が有る広場に車を停め、歩き始める

県道から分かれ、急坂を上がって行くと「中屋説教所→」の標識がある

  

説教所標識を過ぎ直ぐ右の坂道(上右写真)を上がると、有りました!

前回見つけられなかった常夜燈

 

説教所(掛所)とは、三野町内でも特異な宗教施設

太刀野山地域の檀家は、いずれも東三好町の光泉寺、教法寺、讃岐の長善寺と遠方のため

江戸時代に三カ寺合同の説教所を建て各寺の僧侶が順番に泊まり込み、法話や永代経を行っているそうです

説教所建物横を抜け、直ぐ右の車道に入る (この車道は地理院地図には載っていない)

中屋東下には、元治二年(慶應元年1865)建立の常夜燈

金毘羅さんを表す「丸に金」の文字がクッキリ

先週の雪はすっかり融けてしまい、朝日を浴びて暖かそうです



三所神社 「ふるさと標柱」に記載された神社の由来を要約すると

琴南町の下福家、三好町東山の男山、中屋の三カ所に有った神社を、御方家(辺見家)が統合勧請し祀ったそうです

生賀集落 日当たりの良い畑には、白菜や大根が育っている

金毘羅詣、借耕牛、商人など、大勢の人々が往来した頃は、どんな風景だったのだろうか?

タイムスリップしてみたい



生賀尋常小学校(明治25年〜明治31年)、生賀分教場・分校跡(明治36年〜昭和45年)

道行く人を見守って来た、生賀のお不動さんと常夜燈



地図を見ながら、常夜燈手前のコンクリート道を上がってゆく

廃鶏舎(?)の奥に阿讃の県境稜線が見える  遠いなぁ

鶏舎前から右に破線が延びているが、山道らしきは無い 道なりに左に進むと車道に出る



何処かで左に入らなければと注意しながら歩いて行くと

法面の取り付きに赤テープ、車道右側を振り返れば藪と化した道らしきが有るので

先程の消えた破線の道は、此処へ繋がっているのでしょう

(車道を真っ直ぐ進むと、大平方面へ行ってしまいます)

多少の藪を掻き分け高度を上げていったら、林道が見えたので駆け上がる

(取付いた法面の手前で、この林道へ続く道が有ったようです)



やれやれと林道を進めば、井ノ久保集落方面からの道が左から合流する

この辺りに小さい道標がある筈と、辺りを捜すが見当らない

伊勢神社へお参りして来ようと上左写真の坂を上がったら、鳥居の前に倒れていました



「施主???」  「世話人 芝生邑 かどや?吉」の文字が読み取れる

(「三好の古道」に拠ると、元冶二年建立(1865)「施主板野郡中喜来の光太、世話人芝生邑かどや嘉吉」)

「天照皇大神宮」の扁額がかかる鳥居から、5分弱で伊勢神社社殿 (高丸山 △井ノ窪 764.1m)

御神燈には、嘉永五子年九月十七日と刻まれている

土讃線が走ってなかった日清、日露戦争の頃、三好郡東部地域から丸亀・善通寺連隊への入隊者は、

また太刀野山の出兵兵士は、日中や太平洋戦争でも、此処伊勢神社で万歳、万歳をして見送られたという



伊勢神社から平坦な尾根道を歩くこと7分で、分岐

此処で林道と分れて山道に入って行く(右写真 白い看板の向かい側)

少し藪化しているが、昔は広い道が有ったのでしょう



山道に入って5分で井ノ久保立石の分岐  松の根元に道標「金毘羅 右芝生道」

分岐を左へ  左側が急斜面の細い道を進む



踏み外しそうなザレ場続きで、先週みたいな大雪だと危険かも?

林道に飛び出し、暫く進むと林道樫ノ休場線起点に着いた

歩き始めて2時間40分、初めて「樫ノ休場」の文字に出会って感動!



このまま林道を進めば峠に着くが、尾根に有る三角点を踏んで来ようと適当に斜面を駆け上がる

が、其処は棘の巣、服が引っ掛かってなかなか進めません  直ぐ上に見える稜線まで、難儀しました

スズタケの中にひっそりと、△樫ノ休場(864.7m)



ほんの少し阿讃縦走路を歩き、阿讃の峠「樫ノ休場」着(845m)

此処から三角点までピストンした方が、棘にも引っ掻かれんし早かったと思います

説明板の後ろの道標が東山峠を指し示している(気になります)





峠から見る象頭山を楽しみにしていたが、春霞?で舫っている(肉眼で薄っすらでした)

この峠を越えて、仲南の塩入へ そして、金毘羅さんと古道が続いていたのだと思うと感慨も一入

「三好の古道」を調査された方は、東山峠を越えて香川県へ下りられているが

塩入へと続く古道は何処だろうか? 今もその道は残っているのだろうか?

遥か金毘羅さんを望みながら、そんなことを思った

さて、折角ここまで来たのだから、縦走路から見えていた中蓮寺山の尖がりピークを踏んで来よう



中蓮寺山 (△中蓮寺 929.8m)  展望は無いけれど、今日の最高点でのんびり昼食

温かいおでんにおにぎり、お味噌汁、食後にコーヒーと、何時もと比べたら豪華版です

下山は南の寒風(さむかぜ)へ かなりの急斜面でした



林道に下り立ち右へ少し下ると、大神宮と水谷地蔵の標識



斜面を少し登れば水谷地蔵、ブロックに囲われた小さなお堂に風化した地蔵尊が鎮座する

手前の手水鉢に刻まれた年代は、明和四年(1767)寅十月廿四日

昭和10年頃までは庵があって人が住んでたそうですが、今は三野町馬瓶の人が管理しているそうです

地蔵尊の上に、大神宮の社が祀られている



樫ノ休場まで引き返し、「折角の休み場なのに、ゆっくり休憩してないねぇ」と

頂きもののバームクーヘンを食べながら、またまたコーヒータイム

さぁ、お腹もいっぱいになったことだし、井ノ久保集落へ向かいます

 井ノ久保集落へは伊勢神社まで引き返すのが近いけど、 来た道を左に見て直進(左写真)

雪解けでぬかるんだ林道をドンドン下って行くと、やがて舗装路となった

そろそろ川を渡る筈と思いながら対岸を眺めていたら、井ノ久保集落への道が見えて来た

それにしても、あの斜度!・・・登り返しがしんどそうです



林道井ノ久保線起点(標高472m) 指標に従って松尾谷川に架かる橋を渡り対岸へ

単調な上り一辺倒の車道歩きは、余計に長く感じます

思った以上に時間がかかったけど、やっと井ノ久保集落が見えた



慶應三年(1867)建立の常夜燈、高さが177cmと大型です

こんな山奥の集落ですが、当時は民宿も有ったとか

集落を抜け峠に向かう途中、遠くなった中蓮寺山(中央)樫ノ休場を振り返りながら大休止



やれやれ、やっと峠に着きました 林道井ノ久保線起点から標高差は200m以上有ったと思います 

(前回、雪降る中を頑張ってこの峠近くまで来ていたようです)

此処は直進ですが、左写真の道を左に入って行くと、右写真です

稜線を挟むように2本の林道が、伊勢神社方向に延びている

錆びついた表示板には「造林用の道路で行き止まり 車両の通行は固くお断り」と書かれている



峠から数分で祇園神社  神社上のヒノキ林の中に道が有るけど、何処へ続いているのかな?

車道を下って行くと、傍に藪に埋もれつつある古道と思しき跡が見られる

展望の開けたところから、阿讃の県境稜線を眺める(大川山はもう少し右でしょう)



中屋西集落まで下りて来た (右写真は、13日の雪景色)

不思議なことに、前回上り下りで2回も会ったご夫妻に、またまたお会いした

「今度は天気の良い日に来なさい」と労ってくれたお礼と、樫ノ休場へ行っ来た報告をすると

この道は金毘羅街道で、昔は家の婆さんも直ぐ上で茶店をしよったと話しながら

「お疲れさんじゃったなぁ」と笑顔で見送って下さった



消防分団庫前の常夜燈   さぁ、駐車場まで後30分くらいでしょう

此処からは、朝歩いた町道や中屋集落を下に見ながら歩く


消えかかった古道も多く、林道、車道歩きが多かったけど

ほぼ、イメージ通り三野に残る金比羅街道を歩け、満足満足でした


後から、ログを見れば、歩行距離22.5km 累積標高1286m

往時は、常夜燈の微かな灯りを頼りに

芝生船場(現在の東三好橋付近)から日帰りで金毘羅詣した人がいたそうですが

信じられん!

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