2019年04月13日  ”二箆山・輪戸内山”


GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
 承認番号 平18総使 第582号る


2週間前、黒滝峠で断念した「逃散の道」の続きです

初めての山、二箆山(ふたつのやま)、輪戸内山(わとうちやま)を踏み

黒滝峠から土佐街道を歩いて猿楽大師まで帰ってきます

街道沿いに残る数々の伝説も楽しみです

(9:15)〜(9:40) 二箆山〜(10:30)輪戸内山〜(10:45)黒滝峠(11:00)〜(11:15)水場(11:30)
(11:40)黒滝峠〜(12:25)林道〜(12:45)P                       (3時間30分)



国道33号から分かれ県道210号に入り、中津大橋を渡る

黒藤川、 二箆、置俵、木地集落を抜け

国道分れから約30分で「林道長崎線」(左写真 ここから砂利道です)に入る

帰路はここを左に(赤蔵ヶ池1.5kmの道標あり)取り、蓑川集落を抜け国道494号に下りました

(蓑川集落手前に、「4t車以上通行止」の箇所あり)

長崎線に入ると、直ぐ赤蔵神社(あぞうじんじゃ 仁平3年(1153)正月創建) 

  伝記によれば、源三位頼政の母が赤蔵ヶ 池で水行し頼政の昇進と源氏再興を当社に祈願したとある



神社から3分で分岐、左の「林道ササミネ線」に入る(左写真)

ササミネ線を揺られながら15分弱、登山口の「ヨラキレ保安林管理道」入口(ゲートあり)着

写真を撮る時間も含め、国道から約50分 長かった(大規模林道が欲しい)

ゲート手前の広いスペースに車を停め、左の作業道から山に入る



3分で、「猿楽石」 「猿楽」が演じられた石舞台のような気がしますが?

石舞台から立木越に南の展望〜♪  「猿楽石より、猿越山を見る小猿」な〜んちゃって

 「松山札辻より十二里」の標柱の後に、猿楽大師堂が佇む

この近くの底なし沼に棲む大蛇が、往来の馬を引きずり込むのを防ぐため大師堂が建立されたとも伝わる

「松府古士談」に拠れば、松山藩領には土州道の里塚石が12基あり

元文5年(1740)から寛保元年(1741)にかけて、木製のものから石製に作り替えたそうです

この里塚石も280年もの長い年月、道ゆく人々を見守って来たと思うと感慨深い



大師堂付近に、新旧の道標が並び立っている

神社左から山道に取り付き、先ずは二箆山を目指す

道が有るような無いような とにかく黒滝峠までは稜線歩きです

およそ山頂らしくない、二箆山(C1169.18m) 三角点が2つ有ったけど・・・?

ところで、このあまり見かけない漢字「箆(の)」とは矢竹のこと

美川村の特産で文化財に指定されている双生矢竹は、一節から枝が2本ずつ出る

それで、「二箆(ふたつの)」なのかな 何となく、納得



ほとんど植林の中ですが、時折展望が出る 

北には、四国の脊梁・石鎚山〜堂ヶ森 やっぱり別格の稜線です

南に、カラ池山〜頂上に石鎚蔵王大権現が祀られている中津明神山



西に、中津明神山と背比べをしたという大川嶺 「ミツバツツジさ〜ん そろそろ出番ですよ」

ここは地味な山域ですが、周りは名山がいっぱいです

笹海を泳ぎ、左にカラマツ林が出てくると輪戸内山は近い

(注 わざわざ泳がなくても、右植林の中は笹はありません)



今日の最高点・輪戸内山三角点(B1258.67m)は、笹の中

三角点から少し進むと、東にも名山 肩をいからせた雨ヶ森が聳える

山友・じいじさんが、友人のジョージさんと一緒に大展望を楽しまれていたそうです



急坂を下り、笹原に佇む馬頭観音と地蔵(共に、天保十二巳四月建立)に迎えられ、黒滝峠着

粉雪が舞った2週間前とは大違い、今日は春の日差しが暖かい



単独行の方が丁度到着されていた これから「高山通り」を歩き、水ノ峠へ帰られるそうです

(後日、掲示板に書き込みをいただき、大将くんだと分かりました)

さて此処からは、前回の検証歩き  県境尾根に入り、広い道を5分進むと作業道に当たる

前回は、何の疑いも無く作業道を左に進み、尾根に出てしまったが

よく見ると、登山道が真っ直ぐ続いているじゃない(右写真)  伐採屑があって見落としたんだわ



ほぼ水平道を進むと、見覚えのある水場に着いた

県境尾根から転げるように下りて来た急斜面を見上げ、スッキリ!

ちょっと、雰囲気の良い谷を散策してから帰りましょう



バイケイソウの緑が目立つ谷で、エンレイソウやハルトラノオが笑いながら「ご苦労さん」



黒滝峠からが今日のメイン、猿楽大師堂まで十八丁(約2km)の古道歩きスタートです

「久万高原遊山会」が設置した、30個近くの「土佐街道」道標を辿るんですが

この程度なら楽勝よと、多少棘の茂る道を歩き始めてはみたものの・・・・



10分で道が怪しくなってきた スズタケに埋もれているのが分かりますか?(左写真)

気合でスズタケ林を抜け、小さな沢を渡る



なんとなく道が合っているんですね  道標が現れ、ほっと一息

檜の幼木の枝を払い、背丈以上の萱を掻き分けながら埃っぽい道(?)を進む

「おーい、こっち」 と、グランパ 声はすれども姿は見えずです

植林作業道の名残か、古道か、もう何やら分かりません



左写真の道標が何個目だったか? 中間点くらいだと思うけど(ログ図の?地点)

喉はイガイガ、眼はウルウル、もう嫌!

こんな藪道歩いて、猿楽石に辿り着くのは奇跡に近い (もうちょっとの辛抱だったかも)

立ち塞がる木々や棘に、「林道に逃げようや」 逃げる時の決断は早い夫婦です

薄っすらした道を左に振りながら下ると、林道に出た 

「立入禁止、愛媛森林監理所長」の看板がある 「すみません」 



振り返り見る西雑誌山、カラ池山

ヤマザクラが無いかなときょろきょろするが、一面植林です

あの辺りに古道が走っているんだろうなと斜面を見上げながら、林道を20分歩いて駐車地点着

土佐街道は、この後尾根を西に向かう

途中、「石鎚展望所」や「盗人石」が有るそうです

石鎚山で賽銭を盗んだ男が天狗に捕まり、投げ飛ばされて石になったとか

金を盗んでここまできた七人の悪党に、石鎚の神が大石を投げ下敷きにしてしまったとかの話が残る



「林道長崎線」起点まで戻り、「赤蔵ヶ池1.5km」の指標に従い西へ

電波塔のあるピーク手前のヘアピンカーブを過ぎるとすぐ、車道脇に

「天下泰平の石」と刻まれた大正8年(1919) 建立の石碑

頌徳碑でもあり、交通の要衝としての道案内でもあったのだろう

「土佐街道」の道標に従い山道を100mほど下ると、「松山札辻より十一里」の石柱が建つ

因みに、七鳥村に十里石、有枝村に九里石、大宝寺のある菅生村に 八里石が有るそうです



石碑から、南西に下ったところに鵺(ぬえ)伝説が残る「赤蔵ケ池(あぞがいけ)」 

源頼政の母が鵺に化けて京を騒がせ、勅命により頼政が鵺を退治した

頼政は昇殿を許され、浮 穴郡里分、山分の領地を下賜されたと伝えられている

戦国期に旧浮穴郡一帯を支配していた土岐氏が源氏の一族なので、鵺伝説が残ってるのか?

「昇るべき道もなければ木の下に椎を拾いて世を渡るかな」という歌も残している母が

この地で矢竹を作らせ、京の頼政に 送ったとか  かなりの教育ママだったのかも

「頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎の如くにて・・」そんな鵺が出てきたら、おー怖!

もう少し暖かくなったらヤマザクラも咲き出すのでしょうが、池畔は未だ冬色 「早よ、帰ろうや」

蓑川へ向かっていると、車道沿いに「旧土佐道」の道標

深く掘れ込んだ道が続いているが、馬の蹄で深く削られた結果の姿で馬道の典型だそうです



車道が、何度か「土佐街道」とクロスする 植林帯に何となく道の雰囲気が残っている

蓑川地区 長閑な山里の春です



国道494に出て、大宝寺を目指す

保元2年(1157)、後白河天皇より下賜された「菅生山」の勅額がかかる楼門

天明7年(1787)、土佐(用居・池川)の農民600人余が水ノ峠から黒滝峠を経て伊予領に入り

大宝寺に庇護されたという「逃散の道」に興味を持って歩いた「予洲高山通り」「土佐街道」

2週間前、水ノ峠を出発してやっと菅生山大宝寺に着きました


無事、逃散?も出来たので、春爛漫の久万高原町を楽しみながら帰りましょう



大正6年(1917)開校の、歴史ある 久万高原町立明神小学校

今は、全校生徒が13人(2018年度)だそうですが、百年に余って多くの子供たちを見守って来た校庭の桜

日本人みんなが心の奥底に仕舞っている、かけがえのない風景です


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