2019年09月29日  ”生野銀山”

史談会のお誘いで「歴史探訪”生野銀山・但馬生野の変”」に出かけた

車中でDVDや資料を使っての歴史講座を聴いていたら、あっという間に朝来市に着きました

大同2年(807年)に、銀が出たと伝えられる「 生野銀山」

室町年間の天文11年(1542年)、但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀石を掘り出し

永禄10年(1567年)には、“銀の出ること土砂のごとし”と言われる日本最大の鉱脈が見つかる

その後、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)徳川家康は

但馬金銀山奉行を配置、佐渡金山、石見銀山と並び天領として徳川幕府の財政を支えてきた

享保元年(1716年)には「生野代官所」が置かれ、第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出

明治元年(1868年)、日本初の官営鉱山(政府直轄)となる

明治政府は、フランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として招き

製鉱所(精錬所)を建設するなど、生野に日本の近代化鉱業の模範鉱山・製鉱所の確立をめざした

 明治22年(1889年)、生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となる

 明治29年(1896年)、三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山として稼働してきたが、昭和48年(1973年)に閉山

その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており

採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいる



明治9年当時、製鉱所正門として築造されたという菊の御紋の入った門柱を抜け、駐車場へ

ガイドさんと一緒に、「生野代官所」と書かれた棟門を潜る

鉱山資料館で、出土した鉱石、慶寿銿露天掘跡模型等の説明後、金香瀬坑道を案内していただく

アーチ型の坑口は、フランス式の石組だそうです



観光坑道の長さは約1000m、温度は年間通じて13度ですが

往時の金香瀬坑道深部は、30℃前後、湿度90%以上と劣悪な作業現場だったとか

唐箕(とうみ)で風を送る手子(てご) 後には、自然通気と機械通気が併用され近代化が進んだ

鉱脈跡 這いながら掘り進んでいった狸掘跡(狸穴)が随所にある

爆破ゾーンや、天正5年に秀吉が来た時に茶を点てたという「太閤水」、人工滝を過ぎると



巻揚・エレベーターゾーン  坑内へ出退する坑夫たちを乗せる 人車

地底まで坑夫を運ぶ光栄立坑ケージとワイア巻揚坑の急な石段



江戸時代採掘ゾーンでは、近代的な削坑工具も無く手掘りなので大変な作業です

掘大工がノミ一本で砕いた鉱石を女手子が集め、砕女が小さく砕き銀鉛を含んだ鉱石を選り分けていた

坑道を測量する振矩師 サザエで作った油筒に菜種油を入れた灯りで位置を示しています



御所務山である金香瀬山では「出方相改取締」と言って、二人の定詰役人が昼夜を問わず詰め

下財(げざい)と呼ばれていた坑夫が日々掘り出す銀石を調べ、下代に記帳させ厳重に監督したそうです

坑内から外に出れば、暑い!

橋を渡り、不動滝や坑道出口上の「滝間歩坑道」を見上げる

思わず声をかけたくなるようなマネキン(全部で60体)は、「GINZAN BOYZ(ギンザン ボーイズ)」

今夏、「超スーパー地下アイドル」として、ソニーミュージックからメジャーデビューしたとか


レストハウスで和やかに食事を済ませ、生野資料館「生野書院」へ向かう

旧家の面影を残す資料館で、生野銀山惣絵図を始め数々の貴重な資料の説明を受け

口銀谷(くちがなや)街歩きに向かっていると、ポツポツ雨が降り出した



天領であった生野の代官所跡に建つ「生野義挙碑」 

「生野義挙(生野の変)」とは、大和で起こった天誅組の挙兵(土佐の吉村寅太郎ら39人)に呼応して

 文久3年(1863)10月、40名余りの勤王の志士と但馬の農民が尊王攘夷の旗のもと代官所を占拠

幕府軍に鎮圧され僅か3日で破陣となったものの、維新の魁として伝わっている

「旧生野警察署」 明治19年(1886)に建てられた擬洋風建築で正面の軒瓦下には、警察の紋章と旧町章が残る



慈悲の阿弥陀様がご本尊の、浄土宗西山禅林寺派西福寺

浄土真宗本願寺派、親鸞聖人の門信徒によって維持されている古刹・金蔵寺

寺町通りには、宗派の異なる8つの寺が連なっている

劣悪な坑内で作業していた坑夫の多くが短命であったこと

また、鉱山には全国各地から多くの人が集まっていて、いろいろな宗派の寺が勧請されたそうです



官営生野鉱山に勤務していた上級官吏のための官舎が4棟現存している

昭和の名優・志村喬さんは、近代化が進むモダンな生野で幼少時代を過ごしたという
 


「志村喬記念館」の玄関を入ると、七人の侍の名場面が描かれた衝立

昔懐かしいテレビやちゃぶ台

数多くの黒澤映画に出演され、「いぶし銀」と称された名演技が蘇ります

一番好きな映画は「生きる(1952)」

癌で余命幾ばくも無いと知った初老の男性(志村喬)

と言っても30年間無欠勤の真面目な市民課長の設定でしたから、未だ50半ばなのでしょう

残り少ない命をかけて、市民のために小公園を建設しようと奔走する

「いのち短し 恋せよ乙女〜♪ あかき唇 あせぬ間に〜♪」と

ゴンドラの唄(吉井勇作詞)を口ずさみながら、 ブランコを漕いでいた姿が忘れられません



明治19年(1886)大山師の邸宅として建てられた「生野クラブ」

昭和31年、三菱が迎賓館・保養施設とし買い上げ、現在は(株)SUMCOが管理し「生野クラブ」として使用している

明治21年に、有栖川熾仁親王が宿泊された部屋も現存するそうです

「生野まちづくり工房井筒屋」(国登録文化財)

江戸時代、旅人の宿泊が禁止されていた生野銀山町には、公事人の宿として6軒の郷宿があり

天保3年(1832)建築の井筒屋(旧吉川邸)はその一軒でした

大雨に遭いながらも、生野の繁栄に思いを馳せた楽しい散策でした

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