2021年07月17日  ”金毘羅街道(土佐北街道)”



GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
 承認番号 平18総使 第582号る



高知の城下と伊予の川之江を結ぶ古道は土佐北街道と呼ばれています

険しい四国山地を縦断し四つの峠(権若峠、国見峠、笹ヶ峰、横峰)を越えるこの街道は、

江戸期以降参勤交代の一行はもとより、商人や金毘羅参詣の人々が歩く道でもありました

今日は、2007年に歩いた横峰越を思い出しながら

横峰北麓の平山集落から川之江までの土佐北街道を

金毘羅道標と燈籠を探しながら歩きます


金田町平山集落P(7:55)〜(10:40)川之江八幡神社(11:00)〜(11:40)川之江城天守(11:50)〜(12:00)P
                              (4時間5分)



川之江城山麓駐車場に車をデポし、金田町半田平山集落へ移動

消火栓横に「土佐街道登り口」の碑があります

県道5号脇の広いスペースに車を停め、雨上がりの車道を下ってゆく

雲は厚いけど視界はまずまず、ゴール予定の川之江城が見えています



300mほど下った交差点で古道に入るんですが、藪っぽいので車道を進む

以前は竹藪の中を通り、此の道(左写真)を下りて来たと思います

古代官道調査保存協議会が設置した「土佐北街道→」の道標が建つ

この先、この道標が随所に出て来ます

金田町東金川地区の田園風景、雨上がりで緑が綺麗!



脇道の分かれに「←雲辺寺、三角寺→」の道標

「へんろ道」(天保十四年)の大きな標柱 この辺り遍路道の雰囲気が色濃く残っています



「右 金毘羅道 此方 へんろ道」

東金川バス停がある辻に、「左 奥の院 右 立川(たじかわ)街道」(右写真、自動販売機横)

先ほどまで堀切峠下しの風が気持ち良かったんですが、風が止み蒸し暑くなってきた



三角寺川右岸に、大西備中守元武、小次郎武氏を主祭神とする大西神社

境内には、金毘羅宮や石鎚神社もお祀りしているそうです(パスしてしまったので、後日尋ねました)

国登録文化財の梅錦山川仕込蔵や主屋を見ながら、街道を下ってゆく



23日、大西神社を尋ねました

表参道の石段を緩やかに上がって行くと、一旦車道に出て新しい鳥居を潜る

風格ある本殿にお参りし、神楽殿もある広々とした境内で一休み

 

本殿背後にある境内社と自然石の石碑

金比羅宮、石鎚神社、山神社、天満宮、若宮神社、本居神社等々が祀られている

嘉永二年建立の鳥居を潜り、裏参道の急石段を下りてゆく



話は17日に戻ります 伊予と阿波を繋ぐ国道192号に出合う

見上げれば高速松山道 直ぐ先には二つのJCT この辺りは昔も今も四国の交通の要衝です

「槍下げの松」(枯死)と、「従是南 西條藩」の領界石



古今荘(左の青壁の建物、国登録文化財)北の辻に、大きな道標と燈籠

「右 川之江(二十五丁) こんぴら(八里二十五丁) 丸可め(十里二十五丁)

 左 ミしま(五十丁)、西条(十里) 八和多濱(三十八里)」 



神道實行教東豫教會所前に、スリムな金毘羅燈籠

スタート地点方面を振り返り見つつ、製紙工場が並ぶ金生川沿いを進む



お洒落な洋館風の太西内科医院(国登録文化財)

洋菓子工房Ange(アンジェ)で、(街道歩きには不似合いですが)マンゴープリン休憩

冷たくて甘いマンゴー、美味しかった〜♪ 「ごちそうさまでした」



植え込みの中に金毘羅大権現と金毘羅燈籠 見過ごすところでした

金生川に架かる金生橋を渡る 旧川之江市には金のつく地名が多いです

金毘羅と関係は?・・・無いでしょうね



川之江の街に入ると道がやや入り組みますが、グーグルマップの「土佐北街道」を追う

中国銀行すぐ東の辻に「左、こんぴらミち 右 満ツやまミち」の道標

 

新町郵便局の辻付近に史跡が並びます

土佐藩主が参勤交代の際に宿泊した「御本陣跡」

 
 
江戸時代後期の儒学者、教育者で「伊予の聖人」と呼ばれた近藤篤山の塾跡(本陣の手前です)

土佐藩の藩庁が置かれていた「高知藩陣屋跡」



JR川之江駅から真っ直ぐ延びる道と古町通りが出合う三叉路(仏法寺北)

現在道標は有りませんが、街道は東へ右折し大師堂東で金生川を渡る

道路拡幅工事の折に、「四国中央市歴史考古博物館〜高原ミュージアム〜」へ移設された道標

「右 こんひらミち 左 婦なば道 満ツ山(松山)道」 (文政十三年)

「左 阿ハみち うんぺんじ道(五里) 右 とさ道 さんかく寺(三十丁) おく乃いん(七十八丁)」(天保六年)



川之江八幡神社が近付いて来ました

大きなこんぴら道標「こんひら道大門へ八里、丸亀城十里」(嘉永七寅十月 1854)

金毘羅街道はこの先長須、余木を越えて、讃岐に入り七里道標がある箕浦へ

(参勤交代一行は、長須から船で次の寄港地讃岐の和田浜へ向かったとか)



右上道標の向かい側に、川之江八幡神社

慶安四年(1651)建立の一の鳥居から車道を少し進むと

山田井川に架かる相模橋の袂に、「山田井街道」 「香川県界へ三四丁」の道標が並ぶ
 
相模橋を渡って300mほど北へ進むと、長い石段が続く塩竃神社(畠山城跡)

昔は、畠山の山裾が大きく海に迫り出し波が打ち寄せる交通の難所であったそうです

慶應四年(1868)、戊辰の役では板垣退助等の土佐迅衝隊1200名が八幡神社に勢揃いし

金毘羅街道を通って讃岐討伐の軍を進めたとの記録がある

 

本日の街道歩きから少し逸れますが、写真は川之江町塩谷の塩竃神社です

急な石段を上り詰めた高台に社殿、一段高くなった背後に川之江城の枝城・畠山城跡の碑が建つ

扇の勾配の石垣の向こうに、川之江城や当市のシンボル・煙突群が良く見えます



相模橋から一の鳥居へ引き返し、矢を持った神像が鎮座する神門を潜って拝殿へ

拝殿前には、弘化三年(1846)、十三代土佐藩主山内豊煕公が寄進した「土佐燈籠(複製)」が建つ

中台や天蓋に龍神、瑞雲が刻まれた本物は、砂岩で崩れやすいので倉庫に収められている

燈籠の後ろに、百手祭の的がある

「百手祭」は、奈良時代、推古天皇六年(598)に九州宇佐八幡宮より分霊を勧請したときに

氏子一同が矢を携えて迎えたことに由来するとか

毎年、3月第一日曜日(昔は、旧暦1月1日の太郎朔日)に、神事が行われた後

裃袴姿の射手が交代で1008筋の矢を射て「悪魔退散」「無病息災」を祈願します



ここ川之江は、「寛政三博士」の一人、儒学者・尾藤ニ洲生誕地です

船溜まりに、いりこ(カタクチイワシ)漁の漁船がたくさん係留されている



住吉神社の燈籠の中台には「金毘羅大権現」と、「八大龍王」

川之江城(仏殿城)向け城山へ、久し振りの登山?です



登城途中眺める横峰越(鞍部・堀切峠の少し左)、姫ヶ嶽から燧灘方面の展望

川之江城落城の際、城主・河上但馬守の息女・年姫が身を投げたと所と伝わる

傍に、姫を想う与謝野晶子の歌碑が刻まれています



櫓門を潜って本丸へ  昭和61年6月に再建された天守閣が聳えます

戦略的要地ゆえ目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉秋の時廃城となる

城山公園は県下有数の桜の名所です



天守から城主気分を味わう 「金毘羅さんは、まだ遠いのう」

広場を見下ろし・・・あの石囲いは何じゃ? 三等三角点・川之江(62.04m)に、ござります

街道は東へ(讃岐街道)、西へ(伊予街道)、そして南へ(土佐北街道)

いろいろ呼び名があるけど、参詣者にとってはどれも金毘羅街道なんですね

今、金毘羅燈籠に灯りは灯りませんが、街角には人々を金毘羅さんへと誘った面影がありました


今日は、天狗の面を背負った白装束の人々に想いを馳せた

4時間、10kmのふるさとウォークでした


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