2021年08月21日  ”金毘羅街道(関ノ戸〜延命寺)


GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
 承認番号 平18総使 第582号る


もう随分お日様を見ていない

雨続きの上に、新型コロナの感染爆発で外出は5割削減

県外、市外への移動は自粛するようにとのお達しもある

山歩きなんて不要不急の代名詞みたいなもんかもしれないけれど

閉じこもってばかりだと、身体に不調をきたしそう

午前中は雨が降らなさそうなので、四国中央市内の金毘羅街道(讃岐街道)を歩いてみよう


関ノ戸(9:10)〜(9:58)千足神社参道(10:20)〜(10:35)拾三里道標〜(11:30)浦山川(11:40)
〜(11:50)
延命寺・十二里道標(11:58)〜(12:10)JR土居駅         (3時間)



今日はせとうちバスのお世話になりました

乗客は私たちを含めて3人 乗り降りが無いので、途中の停留所は全て通過です

関ノ戸で下車、旧国道に入って5分で「瑞応寺7.3km 神宮寺4.9km 山根公園6.0km」の道標



旧国道と国道11号が合わさる手前の高台に、昭和63年春に建立された新居・宇摩両郡の郡境がある

「金比羅街道關之峠跡」「北 国道十一号線 御料時代上野村制札場跡」 「南 旧国道」

国道に出て直ぐ「正覺寺→」に従って右折、坂道を上がってゆく



宝暦11年(1761)に建てられたという茶堂跡「中将庵」

  奥の大木は、初冬に黄金色の輝きを見せるイチョウ(根回り12m、樹高30m)で、市指定天然記念物

中将庵から関ノ原集落をゆくと四辻の高台(畑?)に、「象頭山拝返光(安政七年建立)」と刻まれた常夜燈がある

晴れてたら、遥か彼方に象頭山が見えるのでしょう

明治の頃、この近くにあった泉屋という宿は松山からの金毘羅参詣客で賑わったそうです

松山から困難な長い道のりを歩いて来て、象頭山を望んだ時の感動は如何ばかりか



たわわに実る稲の向こう、屏風を立てたような赤石山系が聳えているんですが

残念ながら厚い雲に覆われて見えません

三つ辻に、地元の行者粂右衛門建立の「回国行者の碑」(安永三年)



道の下集落に佇む、自然石の常夜燈

「四国のみち」道標に導かれ、関川沿いを歩く

突然、グランパがこの道をバスで走った記憶が有ると言い出した

小学生の頃なのでもう65年も前の話ですが、辺りの景色が変わってないのかな?



関川の渡し場に架かる熊谷橋を渡る

橋を渡って直ぐのところに祀られた「熊谷地蔵尊」 

鎌倉室町時代、中国宋時代の地蔵尊菩薩霊験記により、無事平安長寿延命を祈願してきたところ

大水害の時も人々を救い、事故無く御護りくださる霊験灼(あらた)かな地蔵尊です(石碑要約)



街道の雰囲気が残る上野集落を進む

明治二十四年(1891)建立の常夜燈「琴平宮」



千足神社参道口 神社まで0.3kmくらいだから、ちょっと寄り道してみよう

千足神社(ちたるじんじゃ)由緒に拠ると

聖武天皇の御代に宇摩、新居両郡の鎮守神として信仰され、弘化四年(1847)当地に遷宮

文化六年(1809)、一絃琴の復興、普及に努めた真鍋豊平が生まれた神社でもある

地元では「真鍋豊平一絃琴保存会」活動で、関川小学校児童たちも毎年発表会で一絃琴を演奏しています



四つ辻に鎮座する薬師堂にお参りして、街道を進む

常夜燈の向こうに西福寺が見え出した



「花蓮の寺」西福寺境内に奉納された金毘羅宮

蕾も残ってはいましたが、蓮の大半は終盤でした



年に三回実がなるという「三度栗」の大木 小さな毬栗をたくさん落としています

西福寺を後にして、北に進むと直ぐ「しるべの地蔵尊」小祠(安永六年建立 1777)が在り

「右 へんろみち 三角寺へ五里」と刻まれている



なお、少し下った辻に、「三角寺・金刀毘羅道」の茂兵衛道標(明治二十二年建立)

西へ30mほど戻ると、「金刀比羅拾三里」の里塚石



少し西に、樹齢100年以上のソメイヨシノ「関川小学校校門の桜」

東進し、関川公民館の前を通り、竹谷川を渡って山際を進む



「平山神社 福万寺跡 福万寺公園」の石碑や道沿いに祀られた石仏を見て進むと

植え込みの中に、木ノ川集落の常夜燈が建つ

「三度栗大師」 弘法大師由来の民話が関川に言伝えられている

四国巡歴の途次の坊様が、栗の実を両手いっぱいに抱えている子どもに

「坊や、その栗をひとつくれないか」と言ったら
その子は惜しげもなく全部差し上げます

坊様は子どもの親切を喜び 「お礼に、この辺り四方八方の栗は年に三度栗が実るようにしてあげよう」

と言って立ち去りました。そして翌年から栗が三度実るようになったのです

里人は「あの時のお坊様は、お大師様に違いない」と有難く思い、その徳を慕って寺を建立したそうです




「木之川橋」バス停のところで、国道11号を横切る

下畑野集落の金毘羅常夜燈



向かいの角、多喜浜からの道分岐に道標(昭和九年建立)

此処は、北野と上野方面の分岐点です

ブロック塀に埋め込まれた道標(?) 違和感なく収まっています



浦山川に架かる常盤橋から二ツ岳を見たかったんですが、残念!

寛政七年に訪れた小林一茶が二ツ岳を見上げ、故郷の戸隠山を懐かしんで詠んだという歌が残っている

”雨かすむ 貴地のあの山 愛ずらしや”  愛(め)ずらしやとは、懐かしいの意味だそうです

橋の袂の自販機傍らで冷たいジュースを飲みながら、暫し休憩

西土居に入り、踏切手前の常夜燈



四辻に建つ道標には「土居神社へ七丁 乳母御前神社へ二十丁 伊豫鉱山へ二里十八丁

鉾石神社へ二里二五丁 別子山村保土野へ五里 南光院へ六里?」とそれぞれの里程が記されている

民話に残る乳母御前神社は浦山川の淵に祀られてるという、一度訪ねてみたい

道を隔て柵が張り巡らされた辺り一帯は、かつて宿屋や茶店が有り

明治の中頃に、土居市が開かれ賑やかだったとか

句碑や歌碑が多数ある中に、「こんひら大門より十二里」の里塚石が建つ


 
道標の後ろには、かつて「辻の坊」と呼ばれた名木「誓の松」(土居のいざり松、栄松とも呼ばれた)

弘法大師御手植えとも謂われ、昭和43年暮に枯れた姿がそのまま残る

「是より阿州はし久ら寺へ十一里 安政四丁巳九月吉日」の道標



準別格本山「延命寺」にお参りして、JR土居駅を目指す

「誓の松」から50mほど東に「俳人小林一茶宿泊 島屋跡」の石柱

寛政七年一月、俳諧行脚中の一茶が山中時風(じふう 入野村の庄屋・屋号を暁雨館)を訪れている

”梅が香を はるばる尋ね 入野哉”



「蔦廼屋」の角に建つ自然石の常夜燈を見て、左折すればJR土居駅

山際の雲は厚いが、海の方は青空が見える

雨雲レーダーでは12時過ぎに雨雲が広がる予報だったけど、雨の心配はなさそうです

さぁ、帰ってお昼にしましょう

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