四国中央市の金毘羅街道最終章、ちょっと県境を越えてしまうけど
三島神社からJR豊浜駅まで歩き、電車で帰ってきます
(参考文献 愛媛県教育委員会発行「讃岐街道」)
JR伊予三島駅(7:55)〜(8:10)三島神社〜(9:00)村松大師(9:15)〜(10:15)川之江八幡神社
(11:44)余木崎神社(12:03)〜(12:27)箕浦港〜(13:55)豊浜八幡神社〜(14:30)JR豊浜駅
(6時間35分)
今日も駅前の駐車場に車を停め歩き始めます
駅前通りを北へ、国道11号に当たり東に進むと金刀比羅宮
この辺りは「お台場」と呼ばれる港でしたが、埋め立てられ三島港記念公園として整備されています
明治39年測圖
(昭和3年、昭和28年修正)の地図
予讃線はあるけど、国道11号は未だありません
現在の海岸線は、埋立が進み北へ延びています
国道を東に進むと三島神社 ここから金毘羅街道のルートは2本
昔は松並木が続き八綱浦として知られていた海岸沿いの道(上の地図の青い点線)と、神社南を東進する道
工場ばっかりで昔の街道の面影はなく、大型トラックがひっきりなしに通る国道を避け、
三島神社の境内を抜け南側の道を進むことにします
三島の町名の由来の神社にお参りして、文政四年(1821)建立の神門を潜り門前の九里石を見て東へ
承応元年(1652)開基の興願寺、境内にある三島幼稚園園庭南隅に市指定文化財・三重塔がある
貞亨三年(1686)建立のもので、二十一番札所太龍寺より譲り受け移築復元されたそうです
川茂川橋袂に金比羅宮常夜燈と鹽竈神社
街道は、直進し井地札ノ町で左折しますが、村松大師堂を尋ねたくて直ぐ先の辻を左へ
村松天満宮(天神社) 菅原道真公・配神熊野十二社・荒神社がご祭神
天正年間から天神原と呼ばれた地で天神様のご神像が発掘され
社を造営してお祀りし、学問の神様として信仰されてきた
左前に火袋石、笠石の無い常夜燈と、後ろに金毘羅宮常夜燈
国道11号を横切り(交差点北西角に右写真の道標在り)、製紙工場に囲まれた道を進む
特攻一番機敷島隊隊長・関行男中佐の墓を見て、村松大師堂へ
村松大師堂は、とげが刺さった時にお参りすれば弘法大師が除いてくれると信仰されてきました
植え込みに「三角寺 前神寺」道標や「こんひら道」道標
のぎよけ大師の民話(要約)
ある日、旅のお坊さんが「今夜一晩、泊めてください」と、浜辺にある関五左衛門さんの家にやってきました
「これは、これは、お坊さま。 貧乏で大したおもてなしも出来ませんが」と、五左衛門はこころよくもてなします。
さて、数日後の事、 晩ごはんを食べていた五左衛門の息子が、魚の骨をのどに刺して苦しみ出したのです。
「しっかりしろ、大丈夫か」 五左衛門がおろおろしているところへ、この前のお坊さんが突然現れました。
「すまないが、水を汲んで来てくださらんか」と頼み、持っていたお椀に水をそそいで、
その上に箸を十文字に置き、お経を唱えながら、その箸の間から息子に水を飲ませました。
すると、ぐったりしていた息子が「ごほん」と咳をすると、大きな骨がポロリと取れ、元気になりました。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」何度も何度もお礼を言う五左衛門さんに
お坊さんはにっこりとして「こちらこそ、五左衛門さんの親切を、まことにありがたく思っています。
お礼に、この木像を差し上げます。それと、のぎよけのおまじないを教えましょう」
そして、みんなが見ている前で川の飛び石に乗り、そのまま煙のように姿を消したのです。
「あのお坊さまは、きっと弘法大師さまじゃ」 五左衛門さんは大師堂を建て、木像をお祀りしました。
その後、のどに小骨が刺さった人や目にのぎが入った人がいると、教えてもらったおまじないで多くの人を助けたそうです。
やがて村人たちは、大師堂のことを 『のぎよけ大師』 と呼ぶようになりました。
今も、弘法大師が足を乗せ姿を消した石が 『大師ふみどめの石』として、お堂の中に残っています。
市無形文化財に指定されている陶芸家佐々木二六氏の「二六焼」の窯元前を通れば
川茂川と契川の合流点 昔は渡し場があったそうですが、今は契橋を渡る(右写真 振り返る)
この辺りに、村松村と妻鳥村の「村境石」があるということで近辺を捜したが、見つからず
道の改修で何処かに埋もれてしまったのかもしれない
三宝荒神社 金毘羅常夜燈や、地蔵(寛政二年)がある
東宮石遺蹟 弥生時代中期より古墳時代にかけての土器が出土した複合祭祀遺蹟
昔は直ぐ側が汀(なぎさ)であり、東宮山古墳に祀られている允恭天皇の皇太子・木梨軽皇子が
川之江に配流されてきたときに、この石に舟を繋いだと伝わる
大師道の道標を見て左へ(振り返ってます)
金生川に架かる大江橋手前で南からの金毘羅街道と合流し、橋を渡り産業道路を進む
川之江城や大峠(正面の凹部)が近付いてきた
城山と井地山に挟まれた大峠 「街道守護」大峠地蔵尊(文化十二年)が見守る
200mほど先の分かれに、祇園宮八坂神社 橘地蔵尊(天明元年)
左に折れ、古町方向に100mほど進むと、大きな金毘羅道標(明治四十二年)
城下町の雰囲気の残る町筋を北へ 佛法寺と川之江城(仏殿城)
JR川之江駅方向へ右折すると、国道11号手前に大師堂
昔はこの東に金生川が流れ、大師橋と呼ばれる太鼓橋が架かっていたそうです
国道を横断、信金手前を左折して400mほど進むと、 三叉路に、天保十巳亥建立の金毘羅燈籠
前方からやって来た広報車が「新型コロナ感染予防のため不要不急の外出は控えてください」と
マイクで呼びかけながら横を通り過ぎた 通りを歩いているのは私たちだけで、何となく肩身が狭い
川之江八幡神社前に、「こんひら道大門迠八里」道標(嘉永七年)
「推古天皇の6年に豊前国宇佐本宮より御分霊を勧請したという」 川之江八幡神社
広い境内を散策、参拝し、神社前の街道を北へ 国道手前に塩竃神社
急な石段を登ると拝殿 本殿後ろが、延元元年(1336)築城と伝えられる畠山城跡(川之江城の枝城)
国道脇に「純信堂」の案内板 「
純信お馬の道」を辿ったのはもう13年以上も前です 懐かしい
純信ゆかりの地が、川之江にあるのをその時初めて知りました
「純信からうまへ」の手紙を記した大きな看板後ろに、純信記念堂
山が迫る海岸部を走るJRと国道 単調な長い車道歩きの始まりです
聴涛庵(西行庵) 左は海岸ですが、コンクリート護岸に消波ブロックが積まれ渚の音は聞こえません
二名漁港から、「鳥越の関」が置かれていた予讃国境・余木崎方面を見る
漁港近くの東屋で小休止し、今日の街道歩き後半へ 常夜燈と直ぐ先に供養塔
大己貴神(大國主命)を勧請し、余木の里の守護神としてお祀りする余木崎神社
三島神社にある「鯛寄せ石」の故郷・余木崎の磯場から川之江三島方面を見る
その昔、この地を訪れた西行の和歌が残る
忘れては 富士かとぞ思ふ これやこの
いよの高嶺の 峯の白雪
伊予の高嶺って、赤石山系や赤星山なのかな〜?
国境を越えると、「道の駅とよはま」
有明浜の銭形を模した寛永通寶のモニュメントが建つ「黄金持ちの聖地」
手を合わせておきましょう
箕浦の竜王山や大谷山を見ながら国道を進む
箕浦港 「こんぴら大門江七里」の道標がこの辺りにあるそうなんですが
見つけられませんでした 船溜まり向かいに、金毘羅大権現常夜燈(弘化四年)
箕浦港から国道を避け、山手の道を歩く 前方に稲積山が見え、その右奥に象頭山が霞んでいる
「箕浦地下道」でJRを潜り、堀切地区で街道に復帰する
七福神社の常夜燈(慶應二丙寅八月吉日)
先日歩いた土居や寒川地区には、青石を積み上げた個性的な常夜燈が多かったが
今日は、御影石を加工したフォーマルなものが多い中で、久々のカジュアルな常夜燈です
四方堂川に架かる関谷橋袂の常夜燈(明治12年建立)
足元の道標は、金毘羅まで六里半です
「○○製綿」や「○○綿業」などの看板を見ながら、「綿の街・和田」の街道を進む
何時の間にか青空広がり、きつい日差しが降り注いできた
たわわに実る稲や尖がり頭の高鈴木を見ながら歩いていくと、地蔵菩薩が祀られた祠
傍らにはベンチが置かれ、大きな榎が日陰を作り涼しげです
讃岐15社の一つ、豊浜八幡神社 和同元年(708)創祀された由緒ある神社で
秋祭りには、ちょうさ(太鼓台)が打ち鳴らす太鼓の音が響き熱気に溢れ返ります
八幡神社西の国道側に建つ、豊浜町指定有形文化財「安永灯篭」
巨額の私財と3年の月日を費やして和田港築港を完成させた、藤村喜八郎、庄屋宮武幸右衛門
二人の功績を後世に伝えるため、寛政四年(1792)に灯篭を建立 その後長く海上安全の灯りを点し続けた
境内に祀られた、豊浜町指定有形文化財「豊浜八幡神社の力石」
江戸大末期、全国力持ち番付に載る江戸の鬼熊の門人、新川七五良、松本辰五良の二人が
当地で行われた奉納力持ちで持ち上げた「力石」が奉納されたと伝わる
豊浜八幡神社少し東の変則四つ辻に、金毘羅燈籠 「右こんぴら、左くわんおんじ」
その360m先に、薬師堂と大きな二本の道標 「こんぴら大門迠六里」の里塚石
白坂川の橋の袂に、地蔵(文政十三年)と燈籠(寛政九年)
「すぽっシュ豊浜」南、道を挟んで大きな道標 右「あハ道」、左「古んひら道」(天保五年)
国道377号に出て街道と分かれ、左へ 踏切を渡り右折すると、JR豊浜駅が見えてきた
駅舎に飛び込み自販機のジュースでのどを潤しながら、2時46分発の下り普通電車を待つ
6時間半かけて19.6kmを歩いてきたのに、電車だと15分程で伊予三島駅着
豊浜から金比羅宮大門まで、後六里です
もう少し涼しくなったら、関ノ戸から大門まで(十三里半くらい)繋いでみましょう
歩いた道 ホーム