2022年06月11日  ”とびしま海道”



安芸灘とびしま海道が全線開通した直後に走った記憶はあるけれど

 御手洗や三之瀬を歩いたのかなぁ?(2009年7月11日に尋ねてるのに、忘れています)

「雨の海道もいいね」という事で、久し振りにフェリーに乗って岡村島へ



8時25分今治港発                                      9時25分岡村港着



「人待瀬戸」展望所から、最初の橋・岡村大橋を見る

橋の真ん中あたりで、愛媛県(今治市)から広島県(呉市)へ

六本目の蒲刈大橋を渡ると下蒲刈島、古くから海上交通の要衝として栄えた下蒲刈町三之瀬

江戸時代、朝鮮からの使節団・朝鮮通信使が立ち寄ったという歴史ある島です



三之瀬瀬戸の急潮を借景に整備された日本庭園、松濤園(しょうとうえん)

園内には、富山県砺波地方の代表的な商家造りである旧有川邸を朝鮮通信使資料館(御馳走一番館)として

また、山口県上関町の商家「旧吉田邸(あかり館)」、広島県宮島町の町屋「旧木上邸(陶磁器館)」を移築

一番奥に、海上交通の重要な役目を果たした御番所を復元している



朝鮮通信使資料館 館内の撮影が出来なかったのが残念でしたが

精密に再現された1/10の朝鮮通信使船の模型や、500人近くにも及ぶ通信使の行列風景等々

徳川家康によって朝鮮国交が復行されてから、将軍の代替わりの時など12回にもわたって来日した

朝鮮通信使の往時をしのぶ資料がたくさん展示されています

(「朝鮮人来朝覚備前御馳走船行烈図」がユネスコ「世界の記憶」登録)

なかでも歓待振りがよく分かるのは「安芸蒲刈御馳走一番」と言わせた、三汁十五菜の饗応料理

漆塗りの器に盛られた豪華な膳が復元されてたけど、とても一人ではとても食べきれない量でした



蒲刈島御番所(17世紀中頃の様子を復元) 奥に白洲がある

蒲刈島繋船奉行のもと、船、船頭、加子を常備し、公用物資の輸送、曳船、漕船、抜荷改めや海上警固に当たっていた



高札場にかけられたお触書



蒲刈島御番所跡の常夜燈

三之瀬港への途中、ひときわ目を引く、総檜造りの蘭島閣美術館

昔、下蒲刈島には蘭の花が一面に咲いていて蘭島とも呼ばれていたとか

その名前に因んだ美術館で、瀬戸内海の自然をテーマにした作品や美術品が展示されている



三之瀬港の常夜燈に灯りがともり、良い雰囲気です

女猫の瀬戸に架かる安芸灘大橋 あの橋を渡れば川尻、広島市内まで一走りなんですが・・・



「福島雁木」 幕府の命を受けて福島正則が建造した長雁木、往時の半分くらいの長さが残っている

参勤交代の西国大名を始め、琉球、朝鮮、オランダの使節団は江戸への往復の途次、此処から上陸

長雁木の向かいにある三之瀬御本陣跡が、浜本陣として諸大名の宿泊に利用されたそうです



下蒲刈島を後にして引き返す途中、豊島から豊浜大橋を見る

中の瀬戸大橋を見ながら、大崎下島の豊町御手洗へ



御手洗休憩所前に駐車して歩き始める

風待ち、潮待ちの港町「御手洗」は、国選定の重要伝統的建造物群保存地区



常盤通りを歩き、くの字路地を曲がったところの塗り壁の家は旧金子邸(屋号は三笠屋)

江戸時代の庄屋、金子家が文人墨客や広島藩の要人などの賓客を接待するために建てた屋敷で

幕末には坂本龍馬、吉田松陰、大久保利通など多くの志士が訪れた

慶應三年(1867)九月、薩摩・長州・広島の三藩による討幕同盟「御手洗条約」が此処で結ばれた

金子邸先の右側の建物は、史蹟・若胡子屋跡

江戸時代のお茶屋で、全盛期は100人以上の遊女を抱えていたそうです

家々に飾られた季節感あふれる生け花のおもてなし



駄菓子屋玩具ミュージアム「御手洗昭和館」

崑ちゃんのオロナミンC始め、大塚のボンカレー、オロナイン軟膏等々、懐かしい看板がズラリ

店内には、瓶に入った駄菓子やラムネ、マグマ大使のシール等々所狭しと並んでいる



七卿落遺蹟(広島県史跡指定)

文久三年八月十八日、討幕派の三条実美ら七卿が長州兵に守られて都落ちした

その時、此処、御手洗の庄屋屋敷・竹原屋で旅の疲れを癒したそうです

蛭子神社鳥居の傍に建つ「御手洗 日本遺産 北前船寄港地・船主集落」の石碑

  潮の流れの速い海峡を見れば、岡村大橋、中の瀬戸大橋、平羅橋が雨に霞む



海岸通りの食事処でお昼をいただく 新鮮な魚が美味しかった〜

趣のある船宿カフェ「若長」は、大洲藩や宇和島藩の船宿だったそうです



江戸時代の防波堤・千砂子波止から、住吉神社の高燈籠を見る 

御手洗幼・小、中学校跡を過ぎると、戦後直ぐの頃の学校標識があり

その後ろは、戦国時代の築城の技法「乱れ築き」で積まれた、満舟寺の高石垣

満舟寺の縁起に拠れば、平清盛がこの付近で嵐に遭った時、称名を唱えたら晴天になったとかで

断崖に草庵を建て行基作の十一面観世音を安置したと伝わる

享保十一年(1726)観音堂が建立され、後に「南潮山満舟寺」として藩から認可を受ける



満舟寺境内には、江戸時代後期の伊予俳人、栗田樗堂の墓石がある

因みに、松山市にある「庚申庵」は寛政十二年(1800)樗堂が52歳の時に閑居として造った草庵です

樗堂は家業の酒造業を盛り立て、町方大年寄の重責を果たしながら、芭蕉の俳諧を継承し

晩年は、御手洗に移り住み、芭蕉のようにひとりの旅人として六十六歳の生涯を終えました

歴史溢れる港町、おもてなしの心遣いを感じながらの散策でした



岡村大橋を渡り愛媛県に帰ってきた

港へ向かう前に、乗越海岸(サンビーチ)から突き出た観音崎を散策 

遊歩道を歩いてゆくと、岬の一段高いところに常夜燈


 
大同年間(806)弘法大師作の救世観音像が安置されてる白石山観音堂

境内に歯痛地蔵や花魁墓標が祀られている



お不動さんの祠に祀られた厨子の中に、三体の石鎚蔵王大権現

  何故かこんな場所に、良寛さんの辞世の句「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」

天保ニ年(1831)辛卯正月六日、弟の由之や貞心尼に看とられながら75歳で遷化

「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」とつぶやいたのが辞世かと思ってましたが

まぁ、この櫻を詠った和歌も良寛さんらしくて好きです



フェリー(179t)は先着順10台程度なので、積み残されないよう早めに岡村港へ帰り、集落を散策

港の東に祀られた龍神神社

今治行きのフェリー最終便4時15分で岡村島を後にする

(積み残されたら、18時05分発で大三島宗方港へ渡り、しまなみ海道を走ることになります)



小大下島、大下島に寄港し、あらためてしまなみ海道の雄大さに圧倒されつつ

17時35分に今治港に帰ってきた


13年前は、広島・川尻から安芸灘とびしま海道を走り、岡村島でUターン

「三之瀬、御手洗もしっかり散策しとったわ」  これからこんな会話が増えてくるんでしょうねぇ


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