2022年06月18日  ”朝鮮通信使を尋ねて”


「朝鮮通信使」は、文字通り「信(よしみ)を通じた」日韓外交使節である

2017年10月、 江戸時代の「朝鮮通信使に関する記録(日韓合わせて111件333点)」が

国際連合教育科学文化機関によって世界記憶遺産に登録された

瀬戸内沿岸に多く残る文化交流の遺蹟が興味深い

先週の呉市下蒲刈町三之瀬に続いて、たつの市室津と瀬戸内市牛窓を尋ねます

朝鮮からの外交使節団・朝鮮通信使が辿ったルート

釜山から海路で対馬、壱岐に寄港し、馬関を経て瀬戸内海に入り、大坂へ

大坂からは淀川を遡航し、淀から行列を連ねて京都に入り江戸に向かった

(野洲市から彦根市に、今も朝鮮人街道と呼ばれている道がある)

対馬から大坂まで45日間、大坂滞在6日間、大坂から陸路で18日間かけて江戸に到着

江戸城で国書を奉呈後、将軍から朝鮮国王への返信や礼物が渡され

その後、盛大な歓待を受け、礼物や礼銀が贈られ、通信使一行は帰途についた

この、国を挙げての一大行事の全行程は、8ヶ月から10ヶ月を要したそうです


室津



奈良時代、行基が開いたという摂藩五泊(宿)の一つ室津港

小さな入り江を埋め尽くす魚船が、整然と係留されている

司馬遼太郎が 「湾は意外に小さい、湾の小ささが室津の風情をいっそう濃くしている(街道をゆく)」

と評した 日本遺産(北前船)のまち室津には1300年の歴史と文化が溢れています





「室津海駅館」は、廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」の遺構で

館内には、海の宿駅として栄えた室津の歴史を、

「廻船」 「参勤交代」 「江戸幕府」 「朝鮮通信使」の四つのテーマに大別し展示している

「室津民俗館」は、姫路藩の御用達をつとめた豪商「魚屋」の遺構で

江戸時代の古地図、銀元制度の資料、小五月祭衣装などが展示されています



使節団は、室町時代の初めころから来日し、

その後、秀吉の朝鮮出兵で一時中断したが、江戸時代に再開

江戸時代の来日回数は、慶長12年から文化8年まで12回を数えた



使節団一行は、正使・副使を中心に500人前後から成り、

海上では大船団を組み、陸上では大行列をつくって江戸へ向かった



「朝鮮通信使室津湊御船備図屏風」

宝暦14年(1764)、第11次通信使一行が室津へ来航した際の船備えの様子を描いている



法然上人が、飲水に困ってる室津の人々のために貝で掘ったと伝えられる淡水の井戸

姫路藩御茶屋は、朝鮮通信使の正使宿舎として使われた



「室の泊」と名付けられた天然の良港に、所狭しと繋がれた釣り船

御番所跡に置かれた「大坂城の石」 

大坂城築城の時、西国大名が石垣を運ぶ途中「室の泊」で海中に落としたと伝わる



室津漁港南岸の岬、明神山にある楫取社(住吉社)から播磨灘を眺めながら進むと

賀茂別雷命が主祭神の賀茂神社 五社造りと言われる格調高い社殿や唐門等は国指定重要文化財

平清盛が厳島詣の途次に参拝したそうで「平清盛 参拝の社」と大きく掲げられている



  法然上人二十五霊跡の一つ、清涼山浄運寺

山門前の海を臨む場所に、遊女の始祖と言われる友君の石碑

友君は木曾義仲の夫人と伝えられ、晩年は仏門に帰依して義仲の冥福を祈ったという



室津を後に、西播磨なぎさ回廊(国道250号)を牛窓へ向かう

途中立ち寄った「万葉の岬」「八大龍王神」

天平8年(736)、日本から新羅へ派遣された者が詠んだと伝わる

「ぬばたまの 夜は明けぬれし 多麻の浦に あさりする鶴 鳴きわたるなり」

一説では、「多麻の浦」は岡山県瀬戸内市から見渡せる一帯であると考えられているそうです



  元禄14年(1701)3月19日午前4時頃、2挺の早籠が高取峠を駆け抜け赤穂城を目指す

早見藤左ヱ門と萱野三平が乗った早籠は、江戸から155里(600km)を4日半で駆け

家老大石内蔵助に、浅野内匠頭の松之廊下刃傷を知らせる

折角だから、赤穂城も散策 大手門辺りや城内が整備され、以前とはかなり変わっていました

日生で食事をして、昼過ぎに牛窓港着 「晴れの国・岡山」は素敵な青空が広がっている


牛窓



さぁ、「しおまち唐琴通り」を散策しましょう

  明治20年に警察署として建てられた国登録有形文化財の資料館「海遊文化館」へ

館内には、朝鮮通信使との文化交流資料と船形だんじりや和船が展示されています

ドアを開けると、朝鮮通信使の正使、副使が迎えてくれる 「アンニョン ハセヨ」



「朝鮮通信使来朝図」 寛延元年(1748)第10回の朝鮮通信使の行列風景(江戸駿河町)

(展示ケース内の行列風景等の資料は、撮影禁止でした)



朝鮮通信使が由来と伝承されている童子舞「唐子踊り(岡山県指定重要無形民俗文化財)」

牛窓地区の総鎮守「牛窓神社」の秋の祭礼では、港町が祭り一色に染まります

「唐子踊り」や「太刀踊り」が奉納され

飛龍丸を始め、八基の船形だんじり(岡山県指定重要有形民俗文化財)が巡行する



続いて、本蓮寺へ向かいます





三重塔が美しい本蓮寺は、朝鮮通信使の接待所となった

室町時代建立の本堂、中門、番神堂は国の重要文化財に指定されている

書院に第5次通信使の七言絶句が残り、備前藩儒学者との交流が垣間見える

牛頭寺古残僧少
翠竹蒼藤白日昏
宿客不眠過夜半
蚊雷蔭々振重門
            遇客為妙上人題

 牛窓の古寺さびて僧も少なく、青青とした竹や藤が茂り日の光をさえぎる
宿の客は夜半が過ぎて眠らず、雷のようにブンブンと飛ぶ蚊の羽音が煩い
               妙上人のために作る



「牛転(うしまろび)」 昭和初期の郵便局で、現在は喫茶店です

汗を拭き拭き120段の急な石段上がれば、牛窓天神社



前島へ渡るフェリーが行き来する唐琴ノ瀬戸 

色とりどりのヨットがセーリング中、気持ち良さそうです



金刀比羅宮荒神社

朝鮮通信使ゆかりの御茶屋井戸

大きな川が無く夏になると水争いが起こった牛窓で、朝鮮通信使を迎えるため

承応3年(1654)6月、岡山藩によって掘られた井戸です



街角ミュゼ牛窓文化館 覗いてみたら絵画展をしていました



三使(正使、副使、従事官)の宿館として利用された、お茶屋跡

石段を上がってゆくと、静かな佇まいの五香宮 境内のあちらこちらで猫ちゃんが寛いでいる



17世紀後半より、急潮「唐琴ノ瀬戸」を往来する船の安全を見守ってきた燈籠堂

石垣は当時のままですが、堂は昭和63年に再建されたものです



五香宮の後、妙福寺から牛窓神社、そしてずっと奥の室津方面を見る



燈籠堂の隣に祀られた龍王宮と恵比須宮も、唐琴ノ瀬戸を見守っている

時間が無くて前島に渡れなかったのが心残りですが

心地良い風に吹かれながら海沿いを歩き、車に帰りました



牛窓オリーブ園の展望塔から眺める牛窓の街並み、碧い海に浮かぶ島々や小豆島

日本のエーゲ海と呼ばれる素晴らしい景色が広がっている



西には、瀬戸大橋や讃岐富士            三等三角点 牛窓山 166.54m


瀬戸内海沿岸に残る日韓交流の歴史や文化に触れ

改めて、古くから積み重ねてきた絆を大切にしなければと思った旅でした
 

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