2023年12月23日  ”土佐のまほろば”


GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
 承認番号 平18総使 第582号る




律令時代に王朝文化の花が咲き、

戦国時代には土佐の中心地でもあったまほろばの里

今日は、国土交通省「日本風景街道」に認定された「土佐まほろばのみち」 を歩きます

(上記案内板は、岡豊城跡登り口に設置されたものです)

紀貫之邸跡に車を停め、まず「長宗我部氏、雄飛のエリア」岡豊城跡へ

その後、国分川沿いを引き返し、

600年の時空を超え「紀貫之 雅のエリア」をじっくり歩きます


紀貫之邸跡P(8:30)〜(9:21)別宮八幡宮(9:31)〜(10:15)岡豊城跡詰ノ段(10:30)
(10:39)
下厩曲輪跡〜(11:35)国分寺(11:46)〜(12:18)比江国衙跡〜(12:49)比江山城跡
(13:03)阿波塚〜(13:20)土佐まほろばそば(13:43)〜(13:54)紀貫之邸跡P (5時間25分)



道の駅「南国」風良里に設置された国府史跡あんない地図

(「紀貫之 雅のエリア」12ヶ所のポイント全て尋ねました)



駐車場前の「国司館跡(紀貫之邸跡)」

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」の土佐日記や

三十六歌仙、古今和歌集編者の一人としても有名な、紀貫之が国司として赴任

邸跡には紀貫之を敬慕し讃える碑が建っている

国司が住んでいたとされるこの辺りは、「ダイリ(内裏)」という字名だそうです



岡豊城跡方面に行く前に、紀貫之の和歌を諳んじながら

「古今集の庭」を散策します

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける



住宅地を西へ

市町村制公布後、明治23年に国府村が発足(比江村、国分村、左右山村が合併し国比左村と命名)

村内には七ヶ所の私塾が有り、子弟教育に熱心だったそうです

立派な鳥居の奥に、八坂神社 ちょっと寄ってみましょう

長宗我部地検帳には「神林一所、社檀祇園殿、横殿、馬場」と記され

元々は祇園社、祇園神社と呼ばれていたが、明治元年の神仏分離令により八坂神社となる



笠ノ川川を渡り、別宮八幡宮の鳥居を潜り、石段を上がってゆく



長い石畳、石段を登り詰めた山の天辺に、別宮八幡宮が祀られている

長宗我部元親の信仰が篤く、出陣にあたっては必ず戦勝祈願をしたそうです



転がり落ちそうな石段を下ってゆく



参道から少し逸れ、南に岡豊山を見る

別宮八幡宮一の鳥居を潜って、県道384を横切り、岡豊山城跡へ

岡豊山麓に葬られている「伝 香川五郎次郎親和の墓」を尋ねて遊歩道を登ってゆく

親和は、元親の次男で讃岐の香川家を継ぐが、秀吉の四国征伐により改易となった



東津野村から解体移築された「土佐の山村民家」で、暫しのんびり

柱に天保三年(1832)の銘が墨書されている



雄々しく長槍を掲げる、「長宗我部元親 飛翔之像」

高知県立歴史民俗資料館に、長宗我部氏の歴史や阿波中富川合戦時の本陣を再現した展示がありますが

現在、設備改修工事のため、令和6年3月28日まで休館です



飛翔之像背後の石段を登って、二ノ段から東方面を見ると、「土佐のまほろば」

「まほろばと」とは、周囲を山々で囲まれた実り豊かな土地で、美しく住み良いところの事

中央に、土佐国分寺跡(今は四国霊場二十九番札所国分寺)、その奥に国府跡等々

史跡、文化財が数多く遺り、歴史上も重要な一帯です

「まほろば」と言えば、日本武尊が詠んだ望郷の歌が思い出される

大和は 國のまほろば  たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し美し



三等三角点 岡豊山 97.49mがある、詰ノ段

天正三の年号がある瓦や土師質土器、陶磁器、銭貨、懸仏の遺物が出土しており

礎石から、近世城郭の天守の前身ともみられる二層以上の建物があったと考えられている



詰ノ段からの物見を楽しんだ後、三ノ段、四ノ段、虎口を見て、南の伝厩跡曲輪へ向かう



伝厩跡曲輪の展望台から、高知市方面を見る

岡豊山の南麓を流れるのは、天然の要害、国分川



岡豊城址の石を使って造られた常通寺島堰は度々流失したので

牛が人身御供として埋められたとの伝説も残っており

藩政時代から、野中兼山らが国分川の治水に苦労している

川幅は広いものの、樹木が繁茂したり、河原で競馬が行われるほどであったとか

なので、洪水が起これば水の流下が非常に悪く、当然堤防の決壊が起こった

そこで、土砂の堆積や樹木などを取除き、川幅80m、堤防の高さを3mとする改修工事が行われた

因みに全コンクリート造りの可動堰が竣工したのは、昭和32年2月のことである



岡豊山南麓を走る土佐北街道(県道252)を進み、岡豊小学校を過ぎたところで右折

国分川支流の笠ノ川川に架かる下乃橋を渡り、田んぼの畦道を歩き国分寺を目指す

岡豊城跡から2.2q歩いてきました

左の山が岡豊山、右の山が別宮八幡宮が鎮座する山です



四国のみち(遍路道)から、先週歩いた権若峠を見る



四国霊場第二十九番国分寺

大正十一年国指定の史跡となった「土佐国分寺」は

天平十三年、聖武天皇勅願により僧行基によって創建された国分僧寺の一つ

鎌倉時代から戦国時代にかけて戦禍や災害で荒廃したが、室町末期に長宗我部氏の庇護を受け復興

永禄元年(1558)、長宗我部国親、元親親子が再建した杮葺きの金堂(本堂)が現在に遺る

発掘調査により、創建期の遺構とみられる磁石建物跡、掘立柱建物群、築地、溝跡等が明らかになっている



国分寺と並んで祀られている総社



比江に国庁が置かれていた時代に、

土佐国二十一社(安芸三、香美四、長岡五、土佐五、吾川一、幡多三)を

勧請して総社とし、此処に参って国内の式内社巡拝の代わりとしたと伝わる



マガモが泳ぐ川べりに、文化7年(1810)刻の地蔵菩薩

「地蔵渡し」は、国分川南から国分、領石への動脈だったそうです



四国のみち道標に従い、国分川ウォーキング(もとちか君)コースを離れ北へ



田畑の真ん中に、「土佐国衙跡」の石碑

この辺りの字名は「コクチョウ(国庁)」だそうです



古代の寺院、比江廃寺塔跡 (国史跡)

出土した瓦から、寺の創建は白鳳時代後期(700年頃)と考えられ

30mを越す高さの五重塔が建っていたと推測されている



「まほろば清流水」 残念ながら、断水でした

紀貫之邸跡は直ぐ其処なんですが、比江山史跡へ

比江山の名は、国司が比叡山を偲んで名付けたともいわれている

この山には史跡が点在しており、

「日吉(ひえ)神社」 「比江山城跡」 「永源寺」 「卵塔」がある



「日吉神社 熊野神社」の扁額が架かる鳥居を潜る



大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀る日吉神社

近江国比叡山東麓にある日吉大社から、国衙鎮護の祭神として勧請された



比江山中腹に在る曹洞宗古峯山永源寺 山内藩家老 乾和三の菩提寺です

本堂横の石段を登ってゆくと



俗に、乾の大墓と呼ばれる「卵塔」 乾家五代にわたる墓碑 が立ち並ぶ



比江山城跡参道入口の石碑から数分で、空堀や土塁が遺る比江山城跡

城主は、長宗我部元親の従弟、比江山掃部介親興(ひえやまかもんのすけちかおき)であり

山頂には、親興を祀る比江山神社が在る



神社正面にたくさんの五輪塔が祀られている、阿波塚神社

国分の北平曽に陣を構えた豊永の大豪族小笠原左近大夫が、阿波兵を配下にし進撃してきたが

岡豊八幡宮に戦勝祈願した長宗我部七代兼光に、ことごとく討ち取られる

討死した阿波兵を埋葬した塚に祠堂を建て霊を鎮めるも、怪奇な話は後を絶たず

永禄年間に、元親が魂鎮めの法会を営んだところ怪奇事件は止んだということです

予定の12ポイントを全部クリアしたので、紀貫之邸跡の駐車場へ戻れば良いのですが

〆は「土佐まほろばそば」でと、そのまま歩いて行ったら

ちょっと北へ進み過ぎて、慌てて引き返す

何とかオーダーストップに間に合い、熱々お蕎麦で温まりました


悠久の時が流れる「土佐のまほろば」は、 見どころいっぱい!

暖かい日差しを受けながら、ゆったりと楽しめた里歩きでした


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