2024年02月03日  ”吉備の中山”


GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
 承認番号 平18総使 第582号る



秋風や 鬼とりひしぐ 吉備の山  向井去来の俳句が残る吉備の中山は

「お腰に付けた吉備団子〜♪」と、犬、猿、雉をお供に鬼退治した桃太郎さん所縁の地です

中世神話に拠れば、退治された鬼は、備中新山の鬼ノ城に棲む温羅(うら)という鬼神で

桃太郎は、吉備津彦神社、吉備津神社のご祭神、大吉備津彦命だとか

先週に続き、古代吉備王国の繁栄を偲ばせる史跡を尋ねながら「吉備の中山」を歩いてきました


吉備津彦神社P(7:55)〜(8:29)龍王山〜(9:10)藤原成親遺跡(9:24)〜(9:40)尾上
(10:21)
御陵(10:40)(10:54)吉備津神社(11:14)(11:54)鼻ぐり塚(12:20)(12:37)
                   (4時間40分)



総社ICの直ぐ東にある、矢喰宮(やぐいのみや 岡山市北区高塚)

祭神は、吉備津彦命の弟、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の孫の吉備津武彦命

吉備津神社と鬼ノ城の中間に位置するこの場所は

吉備津彦命の放った矢と、鬼神温羅の投げた巨岩がぶつかって落ちた場所という伝説が残る

境内にある巨大な花崗岩は、温羅が投げ飛ばした岩だそうです

吉備津彦命の放った矢が当たり、温羅の眼から吹き出した血潮で血吸川を真っ赤に染めたという



吉備津彦神社駐車場傍の桃太郎に見送られて、いざ出発です

先ずは神池をぐるりと回り、大鳥居を潜ってから

縁起の良い、鶴島神社、亀島神社に詣で、太鼓橋を渡ります



備前国の一宮、吉備津彦神社(祭神は大吉備津彦命)

大和朝廷より遣わされ、鬼ノ城に陣取る温羅を退治して吉備国を平定した命は

昔話「桃太郎」のモデルとして有名です

高さが11.5m、笠石が8畳程と日本一の大きさを誇る石燈籠を見ながら、随神門を潜る



拝殿、祭文殿、渡殿、本殿を巡り

七つの末社(鯉喰神社、矢喰宮の間)から、登山道に入る



良く踏まれた坂道を、15分ほど登れば



龍王山(170mp)  龍神社(ご祭神 八大龍王)が鎮座する

左横に経塚



岡山市街地



神様の依代とされる元宮磐座(毎年5月に磐座祭が行われる)



ロープの張られた急坂を下ってゆくと



巨岩の頭が見えてきた

天柱岩越しに、先週歩いた日差山、江田山方面を見る



古代の磐座「天柱岩」 

説明板要約 (昔この岩は、ヌスト(盗人)岩とも呼ばれていたが、

昭和9年、福田海の中山通幽が天柱の文字を刻んだことから天柱岩と呼ばれるようになった

吉備津彦神社の絵図(1814年)には、この岩に「権現岩」の名が記されており

備前州一宮密記にある「龍王山の西八合目には権現の神座と称する巨岩がある」と一致する

この岩の下からは、祭祀に用いられたと考えられる土師器片が発見されている)



ドンドン下って少し登り返せば、「法螺貝の井戸」

千年の昔から涸れたことがない霊験あらたかな霊水、呪水で

水を飲むと、病気が治る、白髪が黒くなる、イボが落ちる、若返ると言われているとか

白髪が黒くなって若返るんだったら、飲んでみたい気もしたけど・・・



「藤原成親遺跡」

京都、鹿ケ谷での平家打倒の密議が発覚し、僧俊寛ととも囚われた大納言藤原成親は

治承元年(1177)、清盛により吉備の中山「有木の別所」に流され非業の最期を遂げた

遺跡の傍らで静かに佇む「成親桜」が春を待っている



ダイボーの足跡 (長さは20m、深さは50pほどの窪地)

ダイボーとは大きな坊さんの意味で、足の大きさから考えると身長は140mだとか!

説明には、元々は深さが1mほどの人工池で細谷川水源近くに在り

この場所で水の神を祀る神事をしていたのかもしれないとある



八畳岩古墳と八畳岩(吉備津神社の奥宮)

古墳時代末期の横穴式石室古墳の西に、大小100を超える岩があり

天井部が平らで畳み八畳ほどの広さのある岩が、八畳岩と呼ばれている

八畳岩前の土中から、土師器の破片が多数採取されていることから

神の依代として神祭りが行われていた磐座であることが分かる



中山茶臼山古墳 (三等三角点 尾上 162.15m)



三角点奥の斜面に大きな岩が並んでおり、最も南に位置する大きな岩が「鏡岩」



山腹にある小さな古墳(石舟古墳群)を見ながら下ってゆくと

少し離れた谷筋に「 石舟古墳」がある

古墳時代終末期(七世紀初め)の横穴式石室古墳で、播磨国の竜山石を刳り抜いた石棺がある

「吉備津宮略書記」によると、中世に行われていた年中行事として

「旧暦3月3日の花祭り、温羅の祭りなり」、神事の後、桜の枝をもって詣でたと、紹介されている

室町時代には、石舟古墳が温羅の墓だと思われていたようです

4月第一日曜日に、この場所で「温羅の花祭り」が行われているそうです



石舟古墳から登り返したところに「吉備桜」



「穴観音」 前方が、中山茶臼山古墳の後円部の頂であることから

この場所は、古墳の埋葬者を拝む時の磐座であることがわかる



「三十三観音」

 江戸時代末期に造られた観世音菩薩霊場巡礼の観音石像

石仏が並ぶ入り口付近に「左 宮内 右 くあんのん」と刻まれた石碑があるので

吉備の中山を越えて吉備津に至る古道が、ここに在ったことがうかがえる



吉備津神社の末社「牛王山 八徳寺」

この場所から、礎石や布目瓦が発見されており

山岳仏教が盛んであった平安時代末期に「高麗寺」の金堂があったと考えられている

明治4年(1871)3月、倉敷県庁に出された「一品吉備津宮社記」によれば

八徳寺は「波津登玖(はつとく)神社」であり、祭神は温羅命となっている

「平安桜」を見て坂道を上がると



中山茶臼山古墳(御陵と呼ばれている)

(第七代天皇)孝靈天皇皇子 大吉備津彦命が祀られている(宮内庁)

大吉備津彦命、若健吉備津彦命の兄弟により、吉備が平定されたと古事記に載っており

吉備氏の祖神であるとされる



御陵の前に、「国境石」

東側が備前国で、西側が備中国です



御陵の広場で寛いだ後、長い石段を下る



中国自然歩道を下ってゆく



吉備津神社 裏からお邪魔しました



約400m続く、木製の廻廊



退治した温羅の首を埋めたとされる「御竃殿」

吉備津彦命の夢に現れた温羅が、釜の鳴る音で世の中の吉凶を占うと告げる

丁度、その「鳴釜神事」が行われていた

因みに、百済から来たといわれる温羅は高度な製鉄技術をもたらし

吉備を繁栄させたが、大和朝廷からみれば、それが脅威となり討伐されたとか

温羅を慕っていた民衆の悲しみは時を超えて受け継がれ

「温羅伝説」を基にした「うらじゃ」祭りが、岡山市の夏を象徴する祭りとして繰り広げられている



宇賀神社 吉備国最古の稲荷神



大吉備津彦大神を祀る、備中国の一宮、吉備津神社

応永32(1425)に再建された、比翼入母屋造りの本殿・拝殿 国宝です



左隅の苔むした岩は「矢置岩」

吉備津彦命が温羅の放った矢をつかみ取り、この岩に置いたと伝わる

毎年1月3日に、6人の射手が北東、南東、南西、北西の四方に向けて矢を放ち

無病息災や五穀豊穣を祈願する「矢立の神事」が、矢置岩の前で行われている

節分行事で賑わう吉備津神社を後にする

吉備の中山の山裾を帰れば、吉備津彦神社は近いが、北へ



郷土記念物「吉備津の松並木」を歩く



「真金一里塚」  旧山陽道(西国街道)に築かれた道標

岡山城下からは万成に次いで2番目の道標で、道を挟んで松と榎が植えられていたそうです

国道180沿いの「従是東備前國」標石 ここから備前国に入ります



JR桃太郎線の「国境踏切(くにざかいふみきり」を渡り、龍王山を見ながら国境を歩く

頂上直下に、天柱岩が見える



「吉備の中山みち」に出て、左(東)へ行けば吉備津彦神社ですが

ちょっと備中国に寄り道します

右へ少し進めば、国境を流れる細谷川に架かる両国橋

備前国と備中国、両方の国にまたがる橋です



明治33年、中山通幽が開いた修験道の寺院、福田海本部

「鼻ぐり塚」 牛の供養をするため、古墳の上に牛の鼻輪が積み上げられている



不動岩に鎮座する理源大師と、役行者

護摩焚きの広場で休んでから、備前国へ



「吉備の中山みち」は金刀比羅宮に通じる道でもあります

ひっきりなしに通る車を避けながら、桃太郎さんが待つ吉備津彦神社へ帰りつきました



鯉喰神社(こいくいじんじゃ  倉敷市矢部)

矢を射られて負傷した温羅は鯉に化けて血吸川を下ろうとしたが

鵜に変身した吉備津彦命に食べられてしまった

その場所に、村人が神社を建立したといわれている



備前焼製の大きな狛犬に迎えられ、神門を潜り拝殿へ

鯉喰神社の建つ丘は、弥生時代の墳丘墓と考えられ

卑弥呼の墓だと唱える「邪馬台国吉備説」の研究家もいるそうです



神社直ぐ東の辻に建つ道標

多くの人がここから由加山を経て、四国の金毘羅さんへ向かいました



国指定史跡「造山古墳」

全長350m、高さ35m、岡山県下1位(全国4位)の前方後円墳です

「岡山市造山古墳ビジターセンター」で展示資料を見て、墳丘へ



後円部から、荒神社がある前方部を見る

(先週は、左後ろの江田山からこちらを眺めました)

5世紀前半の吉備を支配した王の墓といわれ、周辺の中小規模の古墳(6基)は、

王に仕えた近臣たちの墓(陪塚)とされている

巨大古墳や国府跡に、おとぎ話のスパイスを利かせたまほろばの風景が

現代の旅人を古代吉備王国のロマンへと誘います


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