国府跡は無いけれど、「宇摩のまほろば」を探して
上柏町、妻鳥町(三島川之江IC付近)を歩いてきました
ここは古代から交通の要衝、伊予、讃岐、土佐へと通じる太政官道(南海道)が走り
諸国駅伝馬にみえる岡本駅が、妻鳥村松木付近に置かれていた
神亀二年(725)、宇摩郡は山田、山口、津根、御井、余戸の五郷となり
その後、天平十一年(739)末頃、郷の下に村が置かれた
古来、妻鳥を免鳥(税が免除)、妻取、目鳥(白が誤って目)などと書いたものがあり
山口郷妻鳥村発祥の諸説は、興味深い
参考文献 妻鳥町誌(妻鳥町誌編集委員会)
松柏(松柏地区、名勝・旧跡編集実行委員会
小中学生のための伊予三島の歴史(伊予三島市教育委員会)
川之江、ふる里の記憶を残す(NPO法人 紙のまち図書館)
P
(8:30)〜(9:54)三角寺
〜(10:44)山神社
〜(11:21)東宮山
〜(12:02)経ヶ岡古墳
〜(12:10)P (3時間40分)
松山道側道脇に車を停め、横尾向け歩き始める
泉屋敷弥生遺跡
村人の命の糧であった泉は涸れることがなく
日照りが続くと、地元の人々が集まって「雨乞い」をしていたそうです
「宇頭乃御燈」は、入母屋造の屋根がある珍しい石燈籠です
明治三年、北岡山に鎮座していた若宮神社に奉納されたが
明治42年、若宮神社が瀧神社に合祀された際ここに遷され
以来、常夜灯として地域の人々やお遍路さんの足下を照らしている
元文四年(1739年)建立、三角寺十八丁の丁石
北岡山古墳(一号墳、二号墳)
上柏町横尾に、万延二年(1861)建立の遍路道標
手作りの可愛い道標 小屋の直ぐ上に、三角寺まで十五丁の道標在り
小屋から3分で、ひびき休憩所 経ヶ岡山と東宮山が見える
「おかげの地蔵」
三角寺まで、六丁(奥之院へは六十四丁)
「若者連中」と書いてある遍路道標は旧伊予三島に6基、川之江に5基ある
車道を横切ミニ四国を見ながら歩いていたら、ポツリポツリと雨が落ちだした
平石山を見ながら、理想郷を歩いて三角寺へ
六十五番札所 三角寺
寛政7年(1795)、当地に足跡を残した小林一茶の句碑が建つ
これでこそ 登りかひあり 山桜
境内を出て、ミニ四国の道を下る
四等三角点 三角寺(332.93m)
山口部落の鎮守神、山の神神社
神社から50m程東に祀られた祠(石川霊神社?)
妻鳥町山口字横山の山口四号古墳
有塚とも呼ばれ、石鎚山・地蔵さん・おすやが安置されている
北岡山、経ヶ岡、四ツ手山(東宮山はもう少し右で、写っていない)を見ながら
古の「宇摩のまほろば」の風景を思い描く
此処から右へ下ってゆくと
妻鳥町西山口の畑の中に、山口一号古墳、石室
両袖型古墳 玄室の長さ5m、巾2m
高速道路を潜り下ってくると、高さが100mに満たないこじんまりとした丘陵が見えてくる
この山頂にある横穴式円墳が、妻鳥陵墓参考地である
東宮山古墳
古墳としての規模は小さいながら
内行花文鏡、金銅透彫帯冠、衝角式冑、金銅製三葉透環頭柄頭、金冠、水晶切子玉馬鐸等々の副葬品や
陪塚からは弥生時代の銅鉾が出土するなど、貴重さは他に類をみないそうです
明治27年の春宮神社祭礼の折に偶然見つけられた方の言葉を、孫であるSさんよりお聞きした
「おじいちゃんがのう、春宮さんの御陵を発見した時に、金の冠が出て
それを、胸にこう抱えて、あの坂道を下りて来たんよ。
丁度夕方で、夕日が西から差してきて、冠がピカッと光って、それは綺麗なかったよ」
そのSさんが言う
「祖先が、この皇子を温かくお迎えし、その亡骸を手厚く葬り、語り伝えた。
そして、毎年9月8日の皇子の命日には里人が寄り合い
東宮山頂で天をも焦がすばかりの焚火を囲んで、夜を語り明かしたという。
祖先に敬意を表しつつ、微力ながら、ご陵墓をお守りしていかなければと自分に言い聞かせている」
下柏町一貫田(いっかだ)の豊玉神社・荒神社で、お茶休憩
四ツ手山北側の麓に、一貫田の観音堂
天保三年(1831)、文化三年(1801)の仏像が祀られている
東宮山を振り返りながら、四ツ手山へ
「堂の奥」と呼ばれる四ツ手山一帯は
弥生時代、古墳時代から現在に至るまで、古墳の地
三島川之江IC西で、高速道路に架かる経ヶ岡橋を渡る
左が四ツ手山、右が経ヶ岡山
側道に建つ経ヶ岡古墳の説明板
此処から出土した金箔の冠や金銅製の馬具(くつわ)等から
東宮山古墳と密接な関係があると思われてる
側道から切り返して登ってゆくと、ちょっと恐い面と社が迎えてくれる
高速道路建設の際に四ツ手山山頂に在った古墳が取り壊され
奉賀会が、この経ヶ岡山頂に社を建立し毎年神事が執り行われている
昨年末から、四国や吉備の国のまほろばを尋ねましたが
この地に住んで半世紀余り、改めてそういう思いで街を眺めてみたら
スケールは小さくとも、まほろばの風景はありました
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