2024年03月30日  ”諭鶴羽古道”


この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用。承認番号 平18総使 第582号る




今日は、「国生みの島・淡路」へ

まず古道を辿って諭鶴羽山に登り、伊弉冉尊が祀られた諭鶴羽神社へ

その後、おのころ島神社など神話ゆかりの地を尋ねます

そして、もう一つ大事なミッション

南あわじ市界隈は、律令時代淡路国府が置かれた地

国府(国衙)や国分寺・国分尼寺を探し

土佐から始めた「まほろばシリーズ」に一区切りつけようと思います


P(7:35)〜(8:44)諭鶴羽山〜(8:59)諭鶴羽神社(9:33)〜(9:48)諭鶴羽山〜(10:05)五丁石〜(11:04)P
     (3時間30分)



ダム登山口から、「歴史と信仰の道・諭鶴羽古道(裏参道)」に入る

山頂経由、神社まで28町、約3.4qです

この道は、近畿自然歩道「黒岩水仙郷、沼島を望むみち」

(国衙バス停から水仙郷バス停まで、15.1q)として整備されています

ダム湖畔に、曽我十郎が、願掛けで

諭鶴羽神社から担いで下したという二つの「担い石」が残っている



二十七丁石 取りつきの急坂途中、最初に出会う丁石です

牛内ダムからの道を合わせる



歴史を感じる道標 「左 こくがやくし、ふくら道」 「右」・・・読めません

目指す諭鶴羽山方面



諭鶴羽神社摂社、「神倉(かんのくら)神社」

諭鶴羽山は修験道の聖地です

地蔵菩薩大権現、不動明王、役行者等をお祀りしている

また、伊弉諾、伊弉冉二神が遊ばれた処でもあります

山頂1.8q標識と後ろに十八丁石、尾根東面の破線道の分岐点だと思います



十二丁石 ヤマザクラやヤマモモが目立つ雰囲気の良い登山道

八丁石を過ぎるとまた分岐

頂上をカットする破線道(二つ目)だと思います



小さな電波塔を過ぎ、少し先を右に上がると



淡路島最高峰・諭鶴羽山(一等三角点607.9m)

諭鶴羽神社頂上社と、手前は磐座でしょうか?

西に大鳴門橋がぼんやり、北にはまほろばの風景が広がっています



兵庫県指定天然記念物「アカガシの群落」の中を下ってゆく

ナラ枯れ対策のために巻かれた防虫ネットが、スカートみたいです

奥の院・篠山神社に参拝します



天の浮橋遥拝所



淤能碁呂(おのころ)島と伝えられる沼島(ぬしま)

昨年6月に尋ねた時、神が創った雄大な海岸美に圧倒されたのを思い出す

今日はあいにく春霞ですっきりしません



「国生み神話」で知られた伊弉冉尊を主祭神に、

その御子速玉之男尊、事解之男尊、三柱の神様を祀る諭鶴羽神社



元熊野宮諭鶴羽宮、諭鶴羽神社由緒



十二所神社、大日堂、神樹・ゆずりはの木、水神社、親子杉、厳島神社など

見どころいっぱいの境内右奥「アカガシの森→」に進むと、寛保四年建立の「一丁石」が静かに佇む

境内入り口の鳥居横に「文政の石灯籠」

裏参道二十八丁付近から、諭鶴羽ダム建設に伴い移設したそうです



灘黒岩海岸からの表参道(18町 約2q)

この道は20年近く前に歩いたんですが、もう記憶が薄い

「さざれ石」(左)と、建武銘「二町目町石」



平和祈念塔が建つ「山ぼうしの広場」 春の日差しを浴びながら小休止

電波塔横を通り、頂上まで登り返し、下山します



古道の確認に、八丁石手前の「諭鶴羽山0.4q」標識で右に入ります

すぐに七丁石が在りました



六丁石、五丁石を過ぎると林を抜け車道に出る

右が諭鶴羽山山頂

車道と重なっているかどうか分かりませんが、

古道は、諭鶴羽神社「アカガシの森」の一丁石に続いていると思います

「諭鶴羽山0.4q」標識まで引き返し、多くの登山者とすれ違いながら往路を下る

二十七丁石先の古道を気にしつつ、ダム登山口に下り立つ


800本のソメイヨシノとヤマザクラが、ダム湖を染める景色を想像しながらダムを後にし

「国生み」と「まほろば」の地へ、車で移動します

(以下、写真は撮影順ではありません)



南あわじ市榎列(えなみ)

伊弉諾命、伊弉冉命が降り立ったと、古事記や日本書紀に記される「天の浮橋」





「葦原国(あしはらのくに)」は、 「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」ともいい

日本神話において、高天原と黄泉の国の間にある世界(日本国の別称)を表している

周りに広がる肥沃な畑では、美味しい玉葱が育っている



鳥居をくぐると、葦原国の石碑と歌碑が建つ





日本書紀の漢字表記で「おのころ島神社」



日本発祥の神社

高さ21.7mの大鳥居は、平安神宮、厳島神社と並ぶ日本三大大鳥居の一つです

1980年に建立された大鳥居をくぐり、境内へ



「おのころ島神社」

伊弉諾大神、伊弉冉大神がご祭神の、日本の八百萬神の親神社です

因みに、古事記の表記では「淤能碁呂島」 、日本書紀の表記では「磤馭盧島」ですが

1981年より、自ずから溜まるという意味の「自凝島」が使われている





淡路市多賀 「式内大社伊弉諾神宮」

伊弉冉命が死した後も、伊弉諾命は多くの神々を生み

国造りをなしおえたのちに、此処を幽宮(かくれのみや)としてお隠れになったと伝わる







「ひのわかみやと陽の道しるべ」の碑

夏至の日の出、日の入りと、冬至の日の出、日の入り

そして東西南北を結ぶと、伊弉諾神宮がその中心となっている

どこかロマンを掻き立てる現象です


続いては、淡路国のまほろば



南あわじ市の旧三原町は淡路国の中心でした

国府の位置は特定されていないが、

「国衙」(南あわじ市神代国衙)の地名が残るこのあたりだと想像できます



南あわじ市市十一カ所の「野邊乃宮」

天平宝宇二年(758)、孝謙天皇が譲位し皇太子大炊王(天武天皇の孫)が即位するが

天平宝宇八年(758)、廃され「淡路公」として配流となる

淡路守佐伯宿禰助に幽閉され、僅か一年ばかりで崩御し野邊乃宮で荼毘にふされ

近くの「丘の松」に埋葬された後、南あわじ市加集の淳仁天皇淡路陵に祀られている

明治三年(1780)、「淳仁」の諡号が贈られた



十一大明神神社、淡路国総社

淡路国内の11官社を合祀、国府の衰退とともに地域の氏神として崇められてきた



諾宮神社(わかみやじんじゃ 伝淡路国司館跡)

国司は、毎年正税の収納や運用を記した帳簿・正税帳を太政官に提出した

淡路国印が押捺された当時の「淡路国正税帳」の木簡の一部が二枚残っており

「淡路国天平十年十二月廿七日史生正八位下榎本直虫麻呂」と裏書されている

淡路国から貢進される贄の運搬をする担夫の人数や往復の日数や

国司が交替するさいには、正倉に蓄えられている穀・稲・糒(ほしいい)の数量

また、正月元日の祝宴や十四日の読経を行った時の支出内訳が記録されている



南あわじ市八木国分 淡路国分寺

天平十三年(741)の聖武天皇の詔勅により建立され、正式名称は「金光明四天王護国之寺」



国指定史跡「淡路国分寺塔跡」

大日如来が祀られた小さなお堂の下に塔の心礎が安置されている





国分寺裏の玉葱畑から、諭鶴羽山(右後方)を見る

 

国分尼寺は、南あわじ市八木新庄、稲荷神社付近と推定されている

神社横の「金雲山理祥院尼ガ寺」の御朱印や、出土した瓦を見せて頂いた

淡路国国分尼寺跡として特定される日が待たれます


葦原国・淡路には、古都・京都や奈良のような磨かれた美しさはありませんが

天地創造、悠久のロマンがいっぱい漂っていました


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