坂出市と宇多津町を分ける聖通寺山と茶臼山
標高は低く、讃岐の里山にしてはあまり目立つ容姿ではありませんが、
瀬戸内海が間近に望め、山城址や古墳が残る歴史の山です
所用の前に、二山をちょこっと歩きました
常盤公園P
(7:50)〜(8:35)聖通寺
(8:41)〜(8:57)茶臼山古墳
〜(9:51)善光寺
・塩竃神社
(10:05)〜(10:20)P
(2時間30分)
桜の名所・常盤公園の聖通寺山展望台(サンアンジェリーナ)から瀬戸大橋を見る
展望台向かいの丘が「積石塚古墳(聖通寺山古墳)」
古墳時代前期〜中期(4世紀〜5世紀)の築造と推定される
瀬戸内海を見下ろす山頂部でもあり、幕末には狼煙場になったそうです
すぐ横に、「平山城跡」の碑がある
古墳の丘に三等三角点 平山(118.25m)が在るはずと探すが、見当たらない
(道を隔てた下の草地に、埋もれていました)
聖通寺山は双耳峰です 舗装路を歩いて北峰から南峰へ
「聖通寺山城跡」に従い舗装路から分かれ、少し上ると
巨大な鉄塔が建つ聖通寺山南峰(117m) 西面のみ眺望あり
聖通寺山城は、応仁の頃(1467〜1469)奈良太郎左衛門元安が築城したが、
天正11年(1583年)長宗我部元親に攻略され落城する
桜が植えられた広場の東奥、「南展望台」から坂出市街地方面
すっきりした眺望はありません
県指定天然記念物「ゆるぎ岩」
説明板に「片手で容易に揺れ動く」と書かれていたけど
両手で押しても、びくともしませんでした
四面津玉座(ヨモツタマイワ) 磐座でしょうか?
ウバメガシの並木を南へ
修験道の祖とされる理源大師
大師堂、それとも聖通寺奥之院かな?
巨岩に護られたミニ四国八十八カ所を、草木が隠そうとしている
石段に四国八十八カ所の説明、整備された方々の名前が刻まれている
車道奥の建物は、役行者堂
讃岐33観音霊場第31番札所 壺平山宝光院聖通寺
天平年間(729〜749)、釈迦院として行基が開創、
弘法大師が巡錫のおり、自ら刻まれた千手観音菩薩を安置
貞観十年(868)、理源大師が中興開山として本尊薬師如来を祀り寺号を聖通寺と改める
背後は、聖通寺山(南峰)
国指定重要文化財の「木造千手観音立像」や「薬師如来像」が安置されている
県道33を渡り、茶臼山へ
「親鸞聖人 二十四靡霊場」碑奥から、左の山道に入る
史跡茶臼山古墳の説明板
全長約80m、高さ約8mの前方後円墳で中讃地域で最大級とある
整然と並ぶ53基の石仏を見ながら、緩やかに上ってゆく
左は、七高祖の像 親鸞聖人が正信偈の中で阿弥陀仏の教えに生きた高僧として崇めている
天竺(インド)の龍樹・天親と、中国の雲鸞・道綽・善導と、日本の源信・源空(法然)
右は、親鸞聖人が崇める聖徳太子像
伝記によれば、建仁三年春に親鸞が京都六角堂で参籠していた時
夢の中で聖徳太子の偈に接し、法然上人と出会うきっかけとなったそうです
親鸞聖人像
「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」
歎異抄で出合ったこの言葉は、衝撃的だった
宗
教弾圧に遭い、僧籍を剥奪され越後(直江津)に配流となった時、自信を「愚禿」と呼び
自分自身の罪深さを知ることからしか、なにも始まらない、真実は念仏にしか無いと
「わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも
他の命あるものたちの命を奪い、それを食することなしには生きえないという
根源的な悪をかかえた存在である。わたしたちはすべて悪人なのだ
わが身の悪を自覚し、嘆き、他力に心から帰依する人々こそ、真っ先に救わる」と説く
戦乱と飢餓と天災で混沌としていた親鸞の時代と
戦争という悲惨な状況が繰り広げられている現在が似ていることを
嘆きつつ、改めて歎異抄を読んだ
茶臼山最高点付近の笹薮に祠が鎮座する
県道まで戻り、聖通寺山東麓を歩く
瀬戸中央道、角山と飯野山
坂出北IC フルインター化工事中
四国善光寺から坂出港、番の洲方面
坂出塩田の父・久米通賢を祀る塩竃神社
坂出市街地、城山、五色台を見ながら
車道を歩き駐車地点に帰ってきた
歩いた道 ホーム