2024年06月15日  ”西条市ウォーキング 吉岡荘”


この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用。承認番号 平18総使 第582号る


今日は「”こころほっこり”吉岡荘ウォーキングマップ」を片手に

見頃のアジサイに彩られた地域の名所を巡ります

吉岡という名は、京都伏見区の安楽寿院が平安時代に所有した荘園「吉岡荘」の名残です

このあたりは、土器の出土や古墳群が見られ、また河野氏始め多くの地方豪族が居住したので

縁の寺社や古代山城跡が在り、幅広い 時代の遺跡、建造物が残る文化度の高い地域です

(参考 西条市HP 、昭和39年発行伊予路の歴史と伝説)


吉岡公民館(7:55)〜(8:16)甲賀神社(8:27)〜(8:42)観念寺(8:49)〜(9:29)民家のアジサイ(9:54)
〜(10:54)
佐々久山(11:02)〜(11:29)吉岡公民館              (3時間35分)



西条市上市の吉岡公民館

吉岡バス停に、案内板「吉岡荘をたずねる」が建つ



石鎚山系を見ながら、出発〜



 東予周桑郡四国霊場 薬師如来八十四番札所 「東光山新福寺」

新福寺の墓地に、林芙美子の父・宮田麻太郎始め宮田家の墓があるそうです



多くの兵が埋葬されたという「千人塚」 

露出している玄室の天井石から、甲賀原古墳群の南端に位置する古墳だったと思われます



「千人塚」の説明板は、文字が薄くなって読み難いけど

「天授五年(1379)十一月六日、佐々久原に於いて伊予の将河野道堯(みちたか)軍七千と

阿波讃岐、土佐の将細川頼之軍四万が激突。河野軍の敗北に終わった。

このとき両者の戦死者を此の地に埋葬した。後の人々は、この塚を千人塚と呼んだ。

別名四方塚、太平塚、鬼塚とも呼ばれ、今後このような悲惨な戦いが無いように四方太平を

願ったとも云われ、又「このような大石は鬼でなければ積めない」との意味から鬼塚の名もある。

この塚は甲賀原古墳群の南端に位置する古墳と云われ直径30メートルを超える円墳であったとも云われ

千人塚に利用されたため唯一残ったのではないかと伝わる 吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進委員会」



甲賀神社の参道


正式社名は「護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡大神社

仲哀天皇八年(199)、仲哀天皇と神功皇后が伊予御巡幸の折、

この甲賀岡に登らせ給い、天神地祇を祀り行在所とされたという伝説が残る

里人は神斎山と呼び、行在所跡に社を創建、その後南朝の興国四年(1343)村上天皇勅願、

また、文明七年(1475)足利将軍が社領を寄進、江戸時代に松山領となり

承応二年(1653)には藩主松平定行が社殿修復を行い尊崇したという



神社の縁起



社宝として伝わる古文書のほか

境内には「秀真(ほつま)文字」といわれる神代文字が刻まれた灯篭も残っている



江戸時代に中国南部より輸入されたという広葉杉、市指定文化財(天然記念物)



石段を上り詰めると、瑞々しい松の緑に包まれた本殿

大明神川を西にして、周桑平野の中に抜きんでる甲賀岡の山麓には 

大古墳群があったという甲賀原が広がり、はるか彼方に神々しい霊峰石鎚が聳える



境内社に、石鎚神社も祀られていました



甲賀神社の鳥居を潜り、山々を眺めながら西へ

岩尾根歩きが楽しい大黒山や、尖り帽子の竜門山



上市集会所前を通り、象ヶ森(185m)麓の観念寺へ

象ヶ森城は南北朝の頃重見十郎通宗が築いたと謂われ

元亀、元正年代(1570〜1573)には櫛部出雲守兼氏、その子肥後守兼久の居城となりました

櫛部氏は河野氏十八将の一人として東予諸城主の中で最も勢を誇っていたが

天正七年(1579)三月、長宗我部軍の勢力下にあった新居群金子城主金子備後守元宅の

攻撃を受け善久寺に逃れるが、翌年近田ヶ原城にて討ち死にする



延応2年(1240)伊予の豪族・越智盛氏が建立の「臨済宗 大雄山観念寺」

見事な高石垣に圧倒されながら、呑海楼の扁額がかかる入母屋造りの山門を潜る

鎌倉時代の終わりに越智一族の寺として栄えたものの、戦国時代に荒廃したが

寛永19年(1642)、松山藩主・松平定行により再建され、将軍家、松山藩の祈願所になる

寺に伝わる102通の古文書は、中世から近世の郷土史研究の貴重な資料で県重要文化財に指定





山門前から見る、周桑平野

今日は天気も良く、あちらこちらから田植えの音が聞こえてくる



観念寺本堂、鐘楼堂





医王山宝林寺を見て、新池へ向かう



アジサイ咲く、せせらぎ公園を抜けると



昭和初期に築造された通称新池

国の「道前道後平野農業水利事業」による、調整池 として整備された池です

今は面河ダムや丹原町の志河川(しこがわ)ダムの水がひかれていますが、

 このあたりは雨量が少なく、昔からたびたび干ばつの被害を受けてきたそうです

本来の機能を果たしながら、地域の憩いの場としても利用されている



中学時代の田口選手が練習に明け暮れたという、大きな池の池畔を進むと



3大会連続でオリンピックに出場し、昭和47年(1972)のミュンヘンオリンピックでは

100m
平泳ぎの金メダリストとなった 田口信教(のぶたか)選手を称える

「金メダリストを育んだ新池」の記念碑が建つ



新池周辺から弥生後期の生活の跡や水霊を祀る祭祀に供したと思われる遺品が多数出土したそうです



広々とした周桑平野では、田植えの真っ最中


広岡部落入口近くにある周囲150m程の小山が、阿曽岡(あそおか)城跡

河野功三郎源吉弘の山城跡で、天正8年(1580)新居群の金子元宅の侵攻によって落城した

昔話によると、ここにはいたずら好きの狸が棲んでいて、村人や旅人を化かしたそうな



阿曽岡城址の説明板

「河野功三郎源吉弘、旦之上の大黒山城より移り、居城した。天正三年(1575)大山祇の神を

勧請し広岡の山神社を建立、天正八年(1580)に藤蔵寺を建立し氏寺としたが、天正九年(1581)

新居の金子元宅に攻められ戦死、落城した。功三郎は、はじめに旦之上に居住したことから、

旦之上功三郎とも云う。当阿曽岡山の山頂には横穴式の円墳(六世紀末)が存在する。

また昔話に「いたずらたぬき、金の仏像の神通力」や寺岡〇〇郎一族の先祖の墓石などの伝承もある

吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進員会」



臨済宗東福寺派、 瑞光山藤蔵寺(とうぞうじ)

河野功三郎源吉弘が天正八年(1580)建立で、ご本尊薬師如来が祀られている



藤蔵寺の近くにアジサイ園が在るはずと近くをウロウロしていたら

民家の庭に、見事なアジサイ〜♪

お邪魔させていただいて、満開のアジサイを楽しむ



数年前までは、奥一面にアジサイが植えられ

石鎚山との絶好の撮影スポットを楽しみに、多くの方が来られていたそうです



少し急な坂道を上がってゆくと

河野道堯(みちたか)、西園寺公俊両公が祀られている医用山善光寺

西園寺公俊は宇和郡松葉城主、荘園の管領として京より下り、河野道堯の妹を室としていた




和霊社と、両脇に大師堂、塩釜社が並ぶ

安産の神としても信仰されているそうです



広い田圃に囲まれた農道を歩いて、佐々久山へ



佐々久神社

元々は山の南端に在ったが、合戦の折消失、享保十二年(1727)現在地に遷される

元禄十四年(1701)、藩命により祈雨祭をおこない瑞雨を得て豊作となる、以来五穀豊穣が祈願された

関係ないけど、元禄十四年といえば江戸城松の廊下の刃傷事件、浅野内匠頭と吉良上野介が思い浮かぶ





西園寺公俊公の墓は「青石さん」と呼ばれているそうです



佐々久山遺跡群の説明板横から山に入り、ちょっとだけ登山



佐々久山(三等三角点・上市 56.01m)



河野通堯公御墓 100mほど先に、五輪塔がある

河野勢七千騎は佐々久山に陣を敷き、阿・讃・土の四万の兵を率いて侵攻してきた細川頼之軍と対峙するが

山地を迂回してきた細川勢の夜討を受け、通堯、西園寺、得能、吉岡ら一門とともに割腹して果てた



新町南端で明かりを灯し続けてきた「石敢當」は、明治元年桑村郡の庄屋22名により建立

寛永18年(1641)、松山藩主松平定行が、藩内に3箇所つくらせた町の内の1つである新町

江戸時代、63軒もの店舗が立ち並び、商業地として繁栄を極めた地区だったそうで

防犯灯でもあるこの石燈籠を拝めば、一般庶民には夢の金毘羅参りが叶うといわれていた

Wikipediaに拠れば石敢當(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)」とは

三叉路や丁字路に設けられ、魔除けの
意味を持つ中国発祥のものだそうです



「吉岡村役場発祥の地」の標柱

明治22年(1889)、6村が合併して桑村郡吉岡村が発足し、ここ大字新町に役場が置かれました



辻に立つ、へんろ道標

四国霊場第五十九番国分寺を打ち終えたお遍路さんは、第六十番横峰寺へと向かいます


見どころの多かった「吉岡荘ウォーキング」、心地良い風をうけて楽しく歩けました

西条市が合併10周年記念に作成した「西条市ウォーキングマップ」は

25コース紹介されていて、興味深いコースがいっぱいです

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