2024年09月14日   ”屋島古道”


この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用。承認番号 平18総使 第582号る



2週間前、9月の風に吹かれながら屋島を散策したとき

「屋島古道(がんじんの道)」が気になり、いろいろ調べてみました

天平勝宝6年(754)、都への途次の鑑真和上が屋島に登り屋島寺の前身である普賢堂を創建したとある

北嶺にある千間堂跡のことです 今まで何気なく見ていた場所が急に身近に感じられだした

源平屋島合戦史跡だけでなく、古代山城屋嶋城、長崎ノ鼻の砲台跡や古墳等々

国の史跡天然記念物「屋島」は、いろんな登山ルートが在り、見どころいっぱいです


南嶺P(6:45)〜(6:50)屋島古道下り口〜(7:16)車道〜(8:08)長崎ノ鼻(8:30)
(8:38)木里神社〜長崎鼻古墳〜(8:54)
北嶺登山口〜(9:30)遊鶴亭(9:52)〜
(11:21)
冠ヶ嶽(11:36)〜(12:13)西尾根展望台〜(12:44)南嶺P   (6時間)



屋島古道の登り口付近に駐車できるところはないかとグーグルで探したけど

よう見つけんかったので、南嶺駐車場に車を停める

駐車場から5分で、「屋島古道(がんじんの道)」の表示板

古道を下り、長崎ノ鼻から北嶺ルートで登り返すことにします

初めての道は、ワクワクです



草っぽい入口を見てちょっと不安でしたが、たくさんの方々が歩かれているようです

道は広く、良く踏まれていて歩き易い



屋島古道の表示板から此処まで、21分

イノシシ避けの鉄柵を開けて、少し進むと



登山口手前に、石仏 (振り返ってます)

まさか鑑真さん?・・・では無いでしょうねぇ



車道に出て、北嶺を見上げながら北へ進む



浜北地区の路地を抜け、県道150の手前で「獅子ノ霊巖」を振り返る



県道沿いに在る「浦生(うろ)」の説明板



鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)がご本尊の鵜羽(うのは)神社

境内には弥生時代後期から飛鳥時代と思われる遺跡があり

 製塩用の土器片や炉跡と思われる焼土が発見された

また、鑑真和上が浦生の宮前に着岸し、当社に詣でた後屋島に登ったと謂い伝えられている



北嶺登山口の160m手前で、県道150と分かれ木里神社参道をゆく



参道口から15分ほどで、文久3年(1863)に築かれた「長崎ノ鼻砲台跡」

砲台はありませんが、不動明王が海に向かって睨みを利かす



砲台跡にある説明板



鼻の突先に腰かけ、行き交う船を眺めながら大休止

潮風が心地よい



汗も引いたので、遊鶴亭が建つあの尖りへ登り返しましょう



長崎ノ鼻から引き返し、広い道から左に逸れ木里神社へ向かう



天正16年創建の木里(きさと)神社 高松の守護神です

松平頼重公、頼常公が高松の繁栄と海の安全を祈願して創建されたが

明治維新以降、荒れるがままになっていたのを昭和57年に亀田宮司が再建する



神社から南に数分進むと「長崎鼻古墳」

5世紀初めに築造された前方後円墳で、阿蘇山の石で造られた舟形石棺が出土している





古墳近くの小高い丘に、鯨大明神と刻まれた石祠が鎮座する

昔は、鯨が豪快に潮を吹きながら屋島沖を泳いでいたのかもしれません



県道150を横切れば、北嶺登山口 「遊鶴亭820m→」に従い、階段道を行く



ユニークな姿の「腰掛の木」から、右奥に進むと



「石切り丁場跡」

江戸時代から昭和の初めにかけて「屋島の黒石」が採掘されたそうです

 高松城築城の折も、ここから石材を運んだのでしょうか?

大小ある洞窟付近はちょっと不気味で、冷んやりとしている



急斜面には丈夫な木製の階段が設置されていて、有難い



頂上が近くなるに連れ、ゴツゴツした岩場になってきた



「遊鶴亭まで30m」  展望が開け、真下に長崎ノ鼻が見える



遊鶴亭展望台から、小豆島方面を見る



高松市街、五色台



男木島、豊島、大島



のんびりと寛いだ遊鶴亭展望台を後にし

ウバメガシに囲まれた石段を上がると、道は左右に分かれる

どちらを歩いても、南嶺駐車場まで2200mです

左の、東ルートをゆく



北嶺(287m)



屋島寺創建の地と伝えられる「千間堂跡」

寺伝では、鑑真和上が都に向かう途中、瑞光に導かれて北嶺に登り

普賢堂を建立し
普賢菩薩や経典を安置したとある

その後、弘仁元年(810)に空海が南嶺の現在地に自作の千手観音を納め、千手院を建立したそうです


平成12年の発掘調査で、東西に延びる基壇上に礎石建物跡が発見

確認できた10個の礎石位置から、東西3間、南北2間の建物であったと考えられ

基壇内部から、仏具である多口瓶(たこうへい)の破片が出土し、千間堂跡の一部であることがわかる



遊歩道を逸れ、尾根道から五剣山や壇ノ浦古戦場を見る



談古嶺から5分で、廃墟となったホテルに着く

傷みが激しい屋内に居た野良猫が「ニャー」と猫撫で声で近寄って来た



一等三角点 屋島山 (292.12m)



ケーブルカー屋島山上駅跡の横をすり抜け南に進む

謂れのありそうな地神塔?



屋島神社ルートをほんの少し下り、高松市街を見る



讃岐岩質安山岩が積み上げられた「経塚」



冠ヶ嶽(288m)から、五剣山、牟礼町を見る



古代山城の「屋嶋城(やしまのき)」

白村江の戦い(天智2年 663)で大敗した大和朝廷は

唐、新羅軍の侵攻に備えて、対馬から畿内に至る要衝に防衛施設を築き

瀬戸内海の制海権を護るポイントとして、朝鮮式山城や中国式山城を築城

日本書紀に、天智天皇6年(667)「讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)」と記されている

因みに、文献に載る城は12ヶ所、載らない城が17ヶ所あり

瀬戸内では、屋嶋城、讃岐城山城、鬼ノ城、永納山城、等々が国の史跡となっている

それにしても日差しのきついこと、写真を撮ろうとして手摺を触ったら、熱くて火傷しそうでした



四国霊場八十八ヶ所八十四番札所、南面山千光院屋島寺

弘仁6年(815)嵯峨天皇勅願により、空海が堂宇を北嶺から南嶺に遷し

自ら刻んだ十一面千手観音座像を本尊として安置した



西尾根展望台



冠ヶ嶽、屋嶋城を見る



「獅子ノ霊巖」では、縁起かつぎの「瓦投げ」に興じる人の歓声が賑々しい



振り返れば「屋島山上交流拠点施設 やしまーる」



歩いた屋島古道を見れば、浦生港までは目と鼻の先

青く輝く海を眺めながら、鑑真和上が北嶺に登られた1300年近く前のことを思いました

6回目の渡海でようよう屋久島に着き渡日を果たすが、それまでの難航の疲労と加齢で両眼を失明

都を目指す途次、屋島が発する瑞光を感じられたのは奇跡としか言いようがありません


歩いた道  ホーム