6年前、仁淀村大渡より
平家敗走・三嶽古道を歩いて横倉山に着いた時
「天皇御陵」や、刀を隠したと謂われる「平家の穴」も見てみたいと思いながら素通りしてしまった
昨年の大河ドラマ「平清盛」を見て、またぞろ其のことを思い出し安徳帝伝説を尋ねることにした
天気予報を見て、「冬はやっぱり、南国高知に限るわ〜♪」と、思ったんですが・・・
織田公園に設置された横倉山案内図 公園を造った越知町の織田さんは、平能登守教経の子孫だそうだ
平能登守教経と言えば、清盛の弟・教盛の次男で平家一の猛将 先日、訪れた千本山にも屋敷跡が残る
国道33号線から分かれ、「安徳帝の里・越知、越知平家会」の赤旗に導かれ、林道に入る
織田公園下の第一駐車場に停め、厳つい兜嶽の岩峰を眺めていると、アララ雪が舞い出した
好天の予報に誘われ、雪山を嫌って高知へ来たのに・・・まぁ、そのうち止むだろう
林道を少し歩くと、左手に「四国のみち 横倉宮2.2km」の道標がある
「安徳天皇従臣・後藤内貞経」の碑を見て、早速の急坂を頑張る
鎖場手前で辺りは薄っすら白くなってきた
道はよく整備されていて、鎖場も急な所は金属の足場が置かれ問題は無い
鎖場を越えると目の前に横倉山のジャンダルム・兜嶽がたちはだかる
少し左の岩場からは南側の展望が広がる 真下に桐見ダム湖が光っている
絶壁にかけれているオクサリも気になるけれど腕力が要りそう・・・やっぱし巻いて行こ
楽しみにしていた仁淀川の大蛇行が薄っすらとしか見られなかったのは、何とも心残り
表参道の夫婦杉から登り返し、帰りも兜嶽へ寄ったらいいじゃない
兜嶽に祀られる石鎚神社 榊が落ちていたので花入れに差そうと思ったら、水がガチガチに凍りついている
夫婦杉への道を右に分け、土佐桜石灰岩が露出した痩尾根を進む
茂った稜線を風が吹き抜け寒い
囲いの中に、「二位僧都専親を祀る」の標識と、名山にしては地味な三角点(774.3m)
三角点から20分弱で、木々に囲まれた横倉宮(標高800m)に着く
「安徳天皇が横倉山行在所で崩御され、正治2年(1200)9月8日、平知盛(清盛4男)により中嶽山頂に祀られた
それ以来、奥ノ院また上ノ宮と称されていたのを、明治元年(1868)4月、御嶽神社と改める
さらに、昭和24年(1949)12月、神社本庁統理の通達によって、横倉宮と改称
社殿 は、玉室の嶽、今は馬鹿だめしといわれる石灰岩の断崖上にある」(越知町HP拠り)
由緒ある称号「玉室の嶽」が、何時頃から 「馬鹿だめし」と呼ばれ出したのだろう
馬鹿かどうか試してみたい気もするけれど
今日の断崖絶壁は、身体を持って行かれそうなほどの強風に煽られて雪が舞う
「やっぱり馬鹿だったんじゃ」と言われんように、見るだけにしとこ
風除けして食事休憩するが、温かいスープも直ぐに冷めてしまうほど寒い
世界的植物学者、牧野富太郎博士発見・命名の「ヨコグラノキ」 クロウメモドキ科 樹齢160年程と書かれている
社殿前に大きな説明板が有るのに、前回どうして気づかなかったんだろう?
横倉宮から少し西へ進んだ所が横倉宮休憩所 東屋が建っている
ほどなく「平家の穴」への指標 帰りに寄ることにして尚も西へ進む
奥の大木にはアカガシの名札が貼っていたが、これはウラジロガシかな?
正冶2年8月8日、23歳の若さで崩御された安徳天皇は鞠ヵ奈呂で奏葬されたと伝えられる
「 明治初年、越知村戸長として赴任した佐川村の川添亥平が
村人と一緒に、伝承されている天皇陵墓を探し、陵墓と思われる所を発見
明治16年 (1883)宮内省より、保護するようにとの通達を受け、同18年(1885)陵墓領域が 確定される
立木とともに宮内省の所轄となって、祭祀、清掃等の経費が支出され、昭和元年(1926)、陵墓 参考地となる
陵墓は、原生の大小古木が生い茂る中、苔むした石段100余段を上った所にあり
昭和52年(1977)に、石材で二重 の玉垣を巡らすなど宮内庁が改築」(越知町HP拠り)
今は木々が生い茂っているが、陵墓西隣の平らな所は天皇が乗馬の練習をされたと伝えられ「御馬場跡」と呼ばれる
畝傍山眺望所より、「馬鹿だめし」の断崖絶壁を眺める
安徳天皇はここから神武天皇を揺かに排したと伝えられ、大和の畝傍山にちなんで名付けられたとか
天気の良いときは、越知町はもとより遠く土佐湾が望めるそうだ
暫く進むと、空池と住吉神社の分岐 (左は直接住吉神社 右は空池経由住吉神社)
右に道を取り進むと、段々石灰岩が露出した特異な地形になり、中には恐竜みたいな形の岩も現れる
だだっ広い窪地があるけれど、水が無いので「空池」と呼ばれている 今日は雪で真っ白!
空池から登りきった所が、今日の最高点(870m)
石を積んだ側に、黒田五郎衛門景直祀と書かれた標柱が立つ
急坂を下った所が住吉神社(初めは黒滝社と称されていたそうだ) 段々雪が本降りになって来た
長いクサリを手繰って鞍部まで下り、岩場を攀じ登る
断崖絶壁の先端に、安徳天皇の随身・花山院中納言兼政(兼雅? 清盛娘婿)が祀られた祠が建つ
説明板に拠れば、此処は山上三嶽の一つ西の嶽とある
と、すると残りの二つの嶽は兜嶽と王室の嶽(馬鹿だめし)のことだろうか?
住吉神社から引き返し、御陵を過ぎ、指標に従い十握谷に下って行くと、岩屋神社が祀られている
あれ、何時の間にか雪が止んで日が差して来た〜
岩屋神社から少し下れば、馬鹿だめしの断崖下にある「平家の穴」
入口を塞げるように平らな石が置かれている 中を覗いてみると、狭くて暗い ちょっとよう入りません
手前の方しか見えず奥がどうなっているのか判らないけれど、追っ手が迫った時に隠れる場所だったらしい
明治初年頃まで、鉄剣・槍・銅鏡などがたくさん残っていたそうだ
見上げれば、今にも落ちて来そうな岩塊が突き出ている おー怖!
もう一度、馬鹿だめしへ引き返し、畝傍山眺望所や住吉神社を眺めながら小休止
「それにしても誰にも会わないねぇ」と、表参道を下って行く
あれ?雪面に新しい踏み跡 表参道からピストンした方がいたようだ
表参道から逸れ、田口神社の前を過ぎ、斜面をひと登りすると、「 安徳天皇行在所跡」の標柱が建つ
田口神社は、阿波国山城谷で天皇一行を匿い、共に落ち延びた田口成良を祀る
田口城を出発したときは300を越える人数が、源氏の追ってから逃れここにたどり着いたのは
わずかに88名だったというから、如何に過酷な敗走だったか想像に難くない
表参道へ引き返し下って行くと、まるでエイリアンの様な木! 参道脇の小広い所に、山小屋風のロッジが建っている
その昔、ここは「天の高市(武家屋敷跡)」といわれ、安徳帝の従臣たちの住居25軒があり、別府の都ともいわれていたそうだ
此処から100m位下った所に天皇に供した泉水があり、「安徳水」と呼ばれている
また、それより200年前、日本霊峰四十八ヶ山の一つ・横倉山に集った修験者たちの
清めの水であったとも伝えられており、昭和60年(1985)環境庁の「全国名水百選」に選ばれている
推定樹齢が、600年(目通り7m29cm)、500年(目通り5m92cm)の大杉に護られた「杉原神社」
安徳天皇が横倉山へ潜幸された文治3年(1187)8月、勧請した神社で明治末頃までは中ノ宮と称していた
杉原神社の奥の小高い所に建つ「平家の宮」には
天皇に供奉して来た平家一門88名のうち、山中に古墳や社が残り名前の判る78名が合祀されている
平知盛(清盛4男)、平経盛(清盛の弟)、小松少将有盛、小松中将資盛(共に清盛の長男・重盛の子)等々
あれ、平大納言時忠って、「平家にあらずんば・・・」って言ったあの時忠さんかな?
確か、能登へ流されたように思うんだけど
「夫婦杉」 兜嶽分岐から、尾根を見上げて無言
もう一度仁淀川の大蛇行を見下ろそうとの意気込みは何処へやら、仲良く夫婦杉の門を潜りました
側の説明板に拠れば「夫婦杉は、横倉山の自然がはぐくんだ希有の?である。両木が相寄り根本で合体した巨木で
千古より契りも深く結ばれた観は、夫婦円満を象徴するかのようであり正に天下に誇るに足る夫婦杉である」
杉原神社からずっーと続く苔むした石段は、数百年前、この山の石灰石で造られたそうだ
金毘羅さんに負けないぐらい有りそうなこの急な石段、580余段でした
少しでも高い所から仁淀川を眺めようと 織田公園の展望台に上がったら、物凄い強風が吹き抜ける
越知の街を縫うように流れる仁淀川、黒森山、山頂に建つ鉄塔が目印の虚空蔵山、蟠蛇ヶ森等々
もっとゆっくり眺めたかったけど、風に煽られてあまりに揺れるので、そそくさと駐車場に帰って来た
下山後、仁淀川に架かる沈下橋から横倉山を眺める
平家一門を護るように聳える兜嶽、 鎖場、大岩壁、700種以上もあるといわれる植物
巨木群の中に厳かに佇む杉原神社等、標高800m足らずの山に見所が溢れている
あっ そうそう横倉山と言えばもう一つ、以前NHKで観たシイノトモシビタケも見てみたい
闇夜に放つ薄緑の光は、あたかも京を想う安徳天皇の涙の如く神秘的〜
安徳帝伝説から光るキノコまで、横倉山はロマンがいっぱいです
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