美しい山容を誇る伯耆富士・大山、古代より信仰の対象だったことは容易に想像出来る
山岳修験の山としても開かれ、また13歳になった男女が春大山に参る十三参等の風習もあったそうだ
近世では、大乗妙典納経の廻国修行も行われ、今も当時の痕跡が色濃く残っている
人を魅了してやまない伯耆大山 ”大山まいり”の道もロマンがいっぱいだろう
今日は、大山道自然観察会に参加し、大山道の一つ、坊領道(仁王道公園〜大山寺)を歩きます
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9時、大山自然歴史館前から、ガイドさん、歴史館のスタッフさんを含め25人程がバスに乗り込み
スタート地点・仁王堂公園へ 公園には、大山町のシンボル・カラス天狗の像が設置されている
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遥かに聳える大山を目指して、意気揚々と出発です もう直ぐ10月だと言うのに、朝から日差しが強い
黄金色に輝く稲穂や蕎麦の花、コスモスや彼岸花に秋を感じながら車道を進む
右にはちょっと気になる孝麗山(こうれいさん 751.4m)
大山と背比べしようと、高麗の人たちが運んで来たそうだけど、勝負にならないわよねぇ
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宮内の常夜灯(文政九年戌八月吉日)には、大山大?、金毘羅大権現と刻まれている
その昔、大山寺や讃岐の金毘羅を目指した人々の道標となったのだろう
雰囲気ある佇まいの宮内集落を抜けてゆく
雪の多さを物語るのか、土壁や漆喰壁の上に杉板を張り付けた土塀が続く
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宮内地域・高杉神社では、閏年に「うわなり神事」という奇祭が行われている
「うわなり」とは後妻さんの事で、室町〜江戸時代にかけて後妻打ち(うわなりうち)という習俗が有り
先妻が親しい女たちに頼み、後妻の家を襲い家財などを打ち荒らすのだそうだ
現在も4年毎の旧暦9月15日深夜に行われているものの、該当者が居なくて困っているとか
4年毎なんてオリンピックみたいだけど、女の執念って怖っ!
道の傍らで伯耆大山を見つめる石碑 大山まいりの途中、行き倒れになった人々が眠っている
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大きくて嫋やかな大山を仰ぎ見ての信仰の旅 大変な苦労もあっただろうが
遥か彼方でも、目指す場所が見えているのは心強かったに違いない
長閑な田園風景が広がり、白い絨毯をひいたように蕎麦の花が風に揺れている
安政六未年十二月吉日と刻まれた佐摩の常夜灯も宮内の常夜灯と同じく、金毘羅大権現の文字が見える
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坊領川を渡った先に今在家(いまざいけ)の道標、「右やま道、 左大山道」と刻まれている
ガイドさんがいなかったら、見落としそうな道標です
竹藪の中にひっそりと佇む五輪の塔
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はっきりとは読み取れないが「奉納大乗 廻国供養 六十六部」らしき文字が石碑に見える
江戸時代前期・元禄年間頃、命がけで日本国中の六十六ヵ国の有名な寺院や神社を回り
納経する行者たちのことを六十六部と呼んだというから
回国行者が、大乗妙典つまり法華経の一字を石に記して土中に埋めた供養塔じゃないかな?
大山寺とやま旅館にある「回国行者三千人宿施行塔 明和九壬辰天(1772)施主豆腐屋云々」の石柱や
西伯郡大山町にある「廻国一千人供養塔」と刻まれた安永6年(1777)建立の碑等々
行者たちを無料で泊め、世話をしたという善行を記した記念碑も残っているそうだ
お昼休憩は、大山農村改善センター
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たっぷり休憩をとり再び歩き始める あれっ? 車道沿いにこんな看板が!
大山にはいないと思っていたけど、数年前に目撃情報があったとか
桜並木の道を鈑川沿いにゆけば「鈑戸(たたらど)の両墓制」の標柱と五輪の塔(埋め墓は右奥の高台にある)
大山町教育委員会設置の説明板に拠れば、「両墓制は鳥取県西部の大山山麓地域を中心に作られるお墓である
人間の肉体には霊魂が宿るという信仰があって、一人の死者に対して2つの墓を作り、死者の肉体を「埋め墓」(ステバカ)に埋葬し
頭髪等の一部を切り取って埋めた「詣り墓」(アゲバカ)を別の場所に作って霊を導いて拝むという風習である。
近年では、ほとんどのお墓が両墓制から単墓制に移行されており、現在、大山町では鈑戸だけが残っている。」
たくさんの石が積み上げられた「埋め墓」は無数にあり、塔婆や石碑などは無い
線香を手向けておられた老夫婦が、「参って頂いてありがとうございます」と会釈して下さった
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テニスコートの横を通り、刈り払いされたばかりの道を進む
大山町の小学生が、日本海にタッチして2日がかりで大山・弥山まで登る行事が有るそうですが
古道の維持管理をされている関係者の方々に頭が下がります
地蔵が祀られている旧道の入口で、大山町の取材スタッフさんがカメラを回している
ここから坊領道は、大山寺に向かって真っすぐ延びている
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旧道入口の石碑には「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
旧道を10分程進んだ所に、「地蔵道」と刻まれた石碑が佇む
大山寺御本尊は地蔵菩薩(牛馬の神)なので、大山まいりの道は地蔵道とも呼ばれたそうだ
地蔵の縁日「二十四日」に因んで、春の祭礼が行われた4月24日には近隣諸国から
牛馬に食料を積んで大山まいりにやって来たので、自然と牛馬の売買が行われるようになり
江戸中期頃には大山寺入口の広場・博労座で牛馬市が定期的に開催され出した
鳥取藩国学者・衣川長秋(伊勢出身、本居宣長の弟子)が「耶都礼蓑(やつれみの)の日記」の中で
文政2年(1819)4月24日の祭礼の日に、、牛馬市を眺めた驚きを次のように表現しています
「鳥居の前にて牛馬の市ありて、十三国よりつどいきたるよし人いへりき。名におふ大山の広き野原も
ところせまきまで人のむれつどひて、物いひかはすと、牛馬のいなゝく声ゆするばかりなり」
(十三国とは、出雲、因幡、但馬、伯耆、石見、隠岐、美作、備中、備前、備後、安芸、播磨、讃岐のこと)
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三十七番地蔵 三十一番地蔵
丁石地蔵に見守られて歩く古道は、 草鞋や牛馬の足音が聞こえて来そう
道の両脇には所々苔むした石積みが残っており、道幅はおよそ二間(4m)
「牛馬のすれ違いが出来るように、こんなに広い道だったんです」 ガイドさんの説明がある
右から聞こえてくる車の音に、時折ロマンをかき消されながら
足に優しい柔らかな道を、大山寺に向けゆっくり高度を上げてゆく
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面白い形のホウキタケ、まるでサンゴみたいです
よく似ているハナホウキタケやキホウキタケは毒が有るそうなので、食べない方が賢明かも
食べられますよと言いながら口に入れてた方が居たけど、大丈夫だったんかな?
自然林の中に不釣り合いなヒノキの巨木、大山道の目印として植えられたようだ
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籠立橋バス停辺りから上の古道は、アスファルトの下に眠ってしまっている
車道を東に進み、入口でたっぷり休憩した後、中国自然歩道に入ってゆく
ここからは、
弥山からJR伯耆大山駅まで歩いた時の懐かしい道
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ガイドさんがサルナシの枝を引き寄せて、小さな実を採っています
二日酔いに効くと、聞いた記憶が有りますが・・・
ちょっと齧ったら、酸っぱいのか渋いのか奇妙な味 みんな、顏がくしゃくしゃです
花咲く水辺で一休み 水温は12度、冷たくて気持ち良い
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車道へ出て少し歩いたところに、ひっそりと佇む七番地蔵
大山まいりの人々に「あと一息」と元気をくれたお地蔵様は、今何を思う
立派な2車線道路を走り抜ける車を見ながら、牛馬が通った昔を懐かしんでいるのだろうか
それとも、原発、国の借金、社会保障等々課題が山積の日本の将来を憂えているのか
右よなご 左みくりやと刻まれた標柱が立つ尾高道と坊領道の分岐で、人々を見守る「別れ地蔵」
江戸末期、回国僧・頼朝坊の供養に建てたもので頼朝地蔵とも呼ばれているそうだ
木々が僅かに色付き始めた正面にで〜んと北壁が・・・見えません
予定時間を多少オーバーしたが、全員無事に大山自然歴史館まで帰って来た
みなさん、お世話になりました
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