2015年02月07日  ”樋山地石鎚山”

伊予河野氏が移り住んだ異国の地・樋山地(ひやまぢ)集落を尋ねる



GPSトラックログ (カシミールソフト使用)
この地図の作成に当たっては国土地理院長の承認を得、同院発行の数値地図50000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用
承認番号 平18総使 第582号


藤井寺(8:35)〜(9:50)長戸庵〜(10:30)樋山地集落跡(11:00)〜(11:10)石鎚神社(11:25)〜お鎖〜(11:45)樋山地石鎚山
(12:00)へんろ道〜(12:15)風景発心の地・食事(12:50)〜(12:55)長戸庵〜(14:00)藤井寺          (5時間25分)


今年の正月登山で石鎚の極め人・赤いクレパスさんに会い

吉野川市鴨島の「樋山地石鎚山 お鎖」を思い出した

それは、2007年11月、藤井寺から遍路転がしを歩いた時、見かけて気になった標識です

その時、機会があれば「お鎖」を見に行ってみたいと思ったのですが

なにぶん頭の中の引き出しには、次から次と「行きたい所」が放り込まれてグチャグチャ

整理整頓がなっていないもんで、ついつい忘れていた

調べてみると、伊予の河野氏が移り住んだ場所で、当時は200軒あまりの集落だったそうだ

伊予の人々にとって、石鎚山は心の拠り所・特別な存在

遠く離れた地で故郷を想い、大岩が立ちはだかる山にオクサリをかけ石鎚山と名付けたのも頷ける 

駐車場の方にお聞きすると、樋山地集落は車道が通じており最近まで2軒ほど住んでいたけど

「今はどうかなぁ」と・・・お鎖も気になるが、河野氏の集落跡が急に身近に感じられて来た



四国霊場第十一番札所金剛山藤井寺(開創は弘仁年間)

弘法大師作と伝えられる四国霊場最古の仏像・ご本尊薬師如来像(国宝)は奥殿に鎮座する

お参りを済ませて本堂左から遍路道に入り、ミニ四国八十八ヶ所に導かれ谷沿いの道を行く



擬木の階段道を頑張り、二度車道に出て、車道の終点が端山(はばやま)休憩所

風もないので思ったほど寒くない 北の吉野川市街を見ながら一枚衣服調節する

尾根を回り込むと、右手に稜線が弧を描いている 石鎚山はどれかな〜?



「水大師」 おへんろさんたちの喉を潤して来た小さな滴りに手を合わせ

先人のご苦労を思いながら、青石の石畳を上って行く



お大師さんも休憩したと伝えられる長戸庵(ちょうどあん)で、小休止

さぁ、此処からが今日の核心部です 遍路道から分かれ、右に下って行く



10分弱下ると長戸集落跡 ここから樋山地集落跡までは少々起伏がある横駆け道です

横駆け道を10分弱進むと、分岐  左上へと続く道は稜線に出るようなので、真っ直ぐ進む



展望は無いが雰囲気の良い石積みの道を進む

林立する杉の大きさから、畑に苗木を植えこの地を離れて3〜40年くらい経つのだろうか

石鎚神社・お鎖へ分かれる道を左に見て  廃屋が残る樋山地集落跡へ下りて行く



   「カーン、カーン」 赤屋根の庭から聞こえてくる獅子脅しの音を聞きながら下って行くと

立派な碑が目に飛び込んで来た 河野氏の先祖碑です

人皇第七代孝霊天皇末葉元伊豫國城主
從五位上越智 河野伊豆守萬五郎通吉 
大通院殿前豆大守天叟長運大禅定門
天正十八年寅三月二十九日逝去

すぐ横に立つ昭和8年建立の碑には、先祖碑寄付者の名(いずれも河野姓)と金額(5円、10円)が刻まれている

ご先祖・萬五郎通吉さんが亡くなった天正十八年(1590)と言えば、秀吉が天下を平定した年

(手元にある伊予路の歴史と伝説「湯築城」の項に拠れば

天正13年の秀吉四国征伐の折、小早川隆景等が率いる毛利軍に敗れ、城主河野通直は安芸国竹原に移され病死

五十七代千四百年の家系が断絶したと記されている)

戦国時代を生き抜いた萬五郎通吉さんも、さそや波乱の人生だったんだろう

その萬五郎通吉の子孫が、江戸時代に川島領主・稲田氏を頼り樋山地を開拓して移り住んだのです

近くに車(廃車?)が停められていましたが、碑の所までは車道が通じています



少し引返し、畦道を下って行くと一対の狛犬に護られた神社がひっそりと佇む

立派な鳥居には八幡神社の扁額がかかり、風情ある御神灯も備わっている

御祭神は、品陀和気命(ホムダワケノミコト 応神天皇)

中世武家時代の頃、山岳武士や山伏の安全祈願のために建てられたそうだ

境内には、樋山地八幡神社社叢の説明板や、屋根に㋥と、丸に二の引両紋が刻まれた石祠が3つ並ぶ

引両紋を調べてみると、㋥は清和源氏を祖とする足利氏にゆかりのある武将が使っている



分岐まで引返し「石鎚神社→ お鎖→」の指標に従って進む

竹が道を塞いでいるが、少し屈めば平気です

道の右側は、たくさんの家屋が並んでいたのか、整然とした石積みが続く中にポツンと廃屋が建つ



分岐から10分程で、樋山地石鎚神社 

寛政年間(1789〜1801)に伊予から勧請、石土毘古命、石土毘売命、猿田彦命の三柱の神が祀られている

拝殿には、正月の注連縄が飾られ、鳥居にかかる「石鎚神社」の扁額も新しい

拝殿右に建つのは、床板が抜けているが農村舞台跡 昭和30年頃までは、大勢の見物客で賑わったそうだ

神社から、5分余り急坂を登って行くと、「お鎖行場」

神社の説明板に拠れば、鎖は、文化14(1816)年、麻植郡児島村の講中が寄進したそうです



お不動様が、「無理せず、巻道を行くように」と、睨みを効かしています

巻道も結構な急斜面、トラロープを頼りに駆け上がります



鎖(この鎖が下の鎖に繋がっているかどうかは分かりません)を登り切った所に、石鎚神社奥ノ院 

傷んだ木の祠の間に、真新しい小さな石祠が鎮座する

奥ノ院のすぐ後ろが、樋山地石鎚山(545m)頂上

本家のような周りを圧倒する力はありませんが、吉野川市が一望のもと

西には、白い高越山も見える



頂上から稜線を東へ5分ほどで分岐 「敷地→」 左は石鎚神社へ下る道

此処の稜線は、西の堀割峠(川島)へと続く麻名尾根古道 麻植と名西を繋ぐ道で、昔は荷馬車も通っていたそうだ



石鎚山から15分で焼山寺へ続く遍路道に合流

馬の背を歩いていると、先程の横駆け道に下る分岐がある



「風景発心の地」休憩所で、のんびり展望を楽しみながら食事休憩です

樋山地集落・石鎚山を巡り、丁度3時間で長戸庵に帰って来た 此処からは今朝歩いた道を下る


今日は、長年仕舞い込んでいた宿題を仕上げて満足満足

オクサリはかけれんかったけど、ちょっとだけ石鎚を極めさせて頂きました〜

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